日々創作と向き合い、音楽を生み出し、世の中に感動やムーブメントをもたらすアーティストたち。この企画は、そんなアーティストたちに、自身の創作や生き方に影響を与え、心を揺さぶった本についてを紹介してもらうものだ。今回は医学部出身で人体解剖の経験があるという
01. 「晩年」(新潮文庫)
著者:太宰治
物語が語られようとする瞬間に文章が終わる
何度読み返したことか。何度この美しい文字の塊たちを咀嚼したことだろうか。しかし、今、「この本のよさを説明せよ」という問いがいかに困難極まりないかということに愕然としている。忌憚なくこの作品のよさを論ずるならば、それは「欠落」と言えるだろう。物語が語られようとする瞬間に文章が終わる。まるで砂嵐に覆われた電波の中から、ときおり途切れ、ときおり濁り、ときおりあまりにも美しい音楽を拾い上げる感覚に似ている。太宰自身が遺書として10年のあいだ書きためた原稿用紙5万枚。その中から燃やされることなく、打ち捨てられることなく生きながらえた文章たち。現世と断絶された散文の上には罪悪、恍惚、不穏、高揚の残渣が匂いたつ。私はこの作品を読むたびに、文章というものの美しさはなぜ成立しうるのか?という命題にさえ立ちかえってしまうのだ。例えば鳥は歌う。クジラも音色の妙を心得る。虫は花の色を解し、犬は嗅覚への見識を深くもつ。しかしいったい「文学」を知れる生き物が、ヒト以外にいるだろうか? 言葉と言葉が配置され、せめぎ合い、絶妙な相互効果で美に変わる。ぜひ体感してほしいものである。
02. 「ナボコフのロシア文学講義」(河出文庫)
著者:ウラジーミル・ナボコフ
言の葉の襞と襞のおくまでかきわけてじっと読み解いて
この世で最も美しい文章の1つである「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ」という1節から始まる小説「ロリータ」の作者であるナボコフ。彼は作家であると同時に文学講座の講師でもあった。神懸かり的な表現者でありながらも、非常にロジカルでわかりやすい評論家でもあるという稀有な存在である彼の文学講座は、私が先に「文章というものの美しさはなぜ成立しうるのか?」と呼んだ命題をいとも簡単に説明してくれる。なぜこの1文が、この物語のこの部分に配置されていることによって魔術的な効果を引き起こすのか、という問いに明確な答えを授けてくれるのだ。難解だと称される文学の1ジャンル、ロシア文学。(フョードル・)ドストエフスキーで挫折した自分をどうにか救ってくれたのが、(ニコライ・)ゴーゴリとこのナボコフのロシア文学講座であった。弦を爪弾く指先の痕跡までにもじっと耳をすませていただきたいというのが音楽家としての業ではあるが、言の葉の襞と襞のおくまでかきわけてじっと読み解いていくというのもまた、なんとも贅沢な味わいであることだろう。
03. 「ネッター解剖学アトラス」(南江堂)
著者:Frank H.Netter
人体解剖の経験から得たどこか投げやりで楽観的な世界観
解剖学の教科書をここにあげるのは反則的だが、自分の人生に多大なる影響を与えたことは間違いないので、やはりここに書かせてもらう。かれこれ長いこと自分の中を貫く哲学のようなものがあって、あえて言葉にすれば「人は美しく、醜く、矮小で驚きに満ちあふれているが、それでもしょせんヒトという生き物でしかない。逆も然り」というどこか投げやりで楽観的な世界観なのであるが、その成立には人体解剖の経験というものが大きいと思う。多少の大きさ、形状の差異こそあれ、私たち人間の体はほぼ同じ構造物の集合で成り立っている。その事実は冷酷にも美しく、そして同時に個性という色彩を剥ぎ取られて滑稽でさえあったのだ。仏教思想にはなるが、色すなわちこれ空なり、そして、空すなわちこれ色なりというあの感覚である。まあ、散々「文学とはかくもよきものだぞ」と説を垂れた文章であったが、ようはなんでもいいのである。文学に傾倒するもよし、音楽に没頭するもよし、何もしないのもまた乙である。ただ生きてくれりゃあなんでもいいのである。だって何もしなくてもヒトなのだから。と、言い残して筆を置く。失敬。
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