日本の音楽史に爪痕を残すアーティストの功績をたどる本連載、今回は今から20年前の1998年5月に急逝した
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I.N.A.との出会い、未知のグルーヴ探求へ
Xにとって1992年は分岐点となる年であった。年明け早々3日間の東京ドーム公演を成功させると、その直後にはTAIJI(B)の脱退を発表。8月にはニューヨークのロックフェラーセンターで記者会見が開かれ、世界デビューとHEATH(B)の加入、さらにはバンド名を
hideがソロ活動を始動させたのは、そうした変動期の最中のことだった。重要なきっかけとなったのは、やはりその後の彼のソロワークを支えることになる
当時hideの関心の対象となっていたのは、The ProdigyやMinistry、Nine Inch Nails、Jesus Jonesなどロックの境界線を拡張させていくような同時代のサウンドだった。プログラマー / マニピュレーターとして豊富な知識を持つI.N.Aという強力なコラボレーターを得たhideは、それらをインスピレーション源としながらソロワークの制作をスタートさせる。I.N.A.の著作「君のいない世界 ~hideと過ごした2486日間の軌跡~」には、92年後半からロサンゼルスを拠点として始まったhideとのスタジオワークの模様が記されているが、そこからはhideとI.N.A.が従来の方法論に囚われない、ありとあらゆる音楽制作を試みていたことが伝わってくる。
その最初の成果となったのが、LUNA SEAのJ、INORANとのユニットであるMxAxSxSの「Frozen Bug」。“hide流のエレクトロニックボディミュージック”とも言えるこの曲は、のちにhideが提唱することになる「人間のグルーヴを切り刻んで機械のビートと融合させたロック」(「君のいない世界 ~hideと過ごした2486日間の軌跡~」より)、すなわち“サイボーグロック”のプロトタイプとも言えるものだ。
いよいよ本格的にソロワークを始動
90年代に入ると、多くのハードロック / ヘヴィメタルバンドが時代の潮流に足並みをそろえるようにインダストリアルやグランジへと接近していった。しかしその多くがバンドの黒歴史となる失敗作を残したのち、2000年代に入ると再度ハードロック / ヘヴィメタルへと復帰している。だが、hideはハードロックを原点とするアーティストの中でも例外的にインダストリアルを経由しながら独自の世界観を開花することのできた数少ないアーティストの1人と言えるだろう。
その理由としては、hide自身がテクニック重視のギタリストではなく、それこそSABER TIGER時代から常に全体のサウンドデザインを意識していたプロデューサー気質のアーティストだったこと、または同時代のダンスミュージックに対しても理解の深いI.N.A.という右腕がいたことを挙げることができるが、何よりもhide自身が新しいレコーディング技術と未知のサウンドに対して人並み以上の好奇心を持っていたことが大きい。そして、そうした好奇心こそがhideのソロワークにおける最大の原動力となっていくのである。
93年8月、hideは「EYES LOVE YOU」「50%&50%」という2枚のシングルでソロデビュー。ボーカリストとしての個性も発揮したこのシングルを前哨戦として、翌94年2月には1stアルバム「HIDE YOUR FACE」をいよいよリリースする。
映画「エイリアン」のクリーチャーデザイナーとして知られる造形作家、H・R・ギーガー作の仮面をジャケットにあしらったこの作品は、I.N.A.とさまざまな音楽的実験を繰り返す中で完成した意欲作だ。1970年代のフランク・ザッパを支えたテリー・ボジオ(Dr)、ジェイムス・ブラウンやスティーヴ・ヴァイとも共演してきたT.M.スティーヴンス(B)という凄腕プレイヤーを招きながらも、そのリズムを解体・再構築することでより柔軟なグルーヴを獲得している。また破壊的でアバンギャルドな美学の持ち主である一方、センチメンタルで繊細なポップミュージックのクリエイターでもあるという、hideの多面的な魅力も余すことなくパッケージングされている。
一方、X JAPAN本隊は「ART OF LIFE」の次回作となるレコーディングが長期化。紆余曲折を経て96年11月に「DAHLIA」がリリースされるものの、翌97年9月には解散を発表し、同年12月31日のラストライブで解散することとなる。hideはそうしたX JAPANの活動で変わらぬ存在感を発揮しながら、「HIDE YOUR FACE」以降、すさまじいペースでソロ活動を展開していく。
生前語っていた“バーチャルアーティスト”
96年、hideは自身のブランド / レコードレーベルLEMONedを設立してZEPPET STOREらを世に送り出すと共に、同名のショップを表参道にオープン。同年9月には2ndソロアルバム「PSYENCE」をリリースする。X JAPANの解散から一夜明けた98年元日には、hide with Spread Beaver名義のソロシングル「ROCKET DIVE」の発売を発表。さらにはレイ・マクヴェイ(ex. The Professionals)およびポール・レイヴン(ex. Killing Joke)の2人とのzilchでも活動するなど、この世を去る98年5月2日までのhideの動きは、まるで自身の死を予見していたかのごとくすさまじいものだった。
死後2カ月後の98年7月には、アメリカでの契約の難航からリリースが遅れていたzilchの1stアルバム「3・2・1」をようやく発売。11月には残された音源をI.N.A.が中心となって制作を続け、ようやく完成に漕ぎ着けたhide with Spread Beaver名義の「Ja,Zoo」がリリースされる。シングル「ピンク スパイダー」「ever free」のヒットもあって、同作はhideのソロ作でも最大の売り上げを記録することとなった。そこに花開いた極彩色のポップサウンドは、リリースから実に20年もの歳月が経過した現在も決して色褪せることはない。
死によってキャリアに終止符が打たれないのがhideというアーティストの特別なところでもあるだろう。「Ja,Zoo」に収録される予定だったデモ音源を元に、I.N.A.が作り上げた死後16年目の新曲「子 ギャル」(2014年)は、その象徴的1曲と言える。また、X JAPANの2008年リリース曲「I.V.」では、hideが残したギター演奏の音源が使用されているほか、X JAPANのライブにもホログラムや映像などの形で“出演”している。さらに2015年にはhideの3Dホログラムコンサートが開催されるなど、彼は今もステージに立ち続けているのである。
先述したI.N.A.の著作によると、生前のhideは、CGにより“hide”という名のバーチャルアーティストを作り、自身はその裏方として作品を作り続けるというビジョンを持っていたと言う。そのアイデアは確かに荒唐無稽なものだったかもしれないが、hideの名で新曲が発表され、ライブが行われている現状はまさに彼が夢想していたビジョンが現実になったものとも言える。hideは今も生きている。それは決して比喩などではなく、音盤とステージ上で彼は実際に生き続けているのだ。これからもいずれ届けられるかもしれない“新曲”のリリースを待ち続けたいと思う。
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- 大石始
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世界各地の音楽・地域文化を追いかけるライター。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」主宰。主な著書・編著書に「奥東京人に会いに行く」「ニッポンのマツリズム」「ニッポン大音頭時代」「大韓ロック探訪記」「GLOCAL BEATS」など。最新刊は2020年末に刊行された「盆踊りの戦後史」(筑摩選書)。サイゾーで「マツリ・フューチャリズム」連載中。
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