日本の音楽史におけるアーティストの功績を音楽的な側面からたどる本連載。今回は、わずか7年半あまりの短い芸能生活の中で数々の伝説を残したスーパースター
文
どんな曲でも打ち返すすさまじさ
作詞家に阿木燿子、作曲家に宇崎竜童を迎え入れ、1976年6月にリリースされた「横須賀ストーリー」をきっかけに、早熟少女からオトナへと見事な脱皮を成し遂げた17歳の山口百恵。しかしながら、そんなイメージチェンジが行われた一方で、彼女は実に多彩な楽曲を歌い続けた。
例えば、高校を卒業したばかりの18歳の彼女に阿木・宇崎コンビが提供した「夢先案内人」は、それまでのシリアスなテイストとは異なったメロディのポップナンバー。ロマンチックな乙女心を綴った歌詞で、言わば“百恵らしからぬ”作品だ。後々もこの曲が一番好きだというファンは非常に多く、百恵の幅の広さを感じさせる素敵な1曲である。
さらにその年の10月に発表した「秋桜」は、さだまさしが作詞作曲を手がけたもので、結婚して親元を巣立っていく娘が母への思いを綴るという、こちらは日本女性の奥ゆかしさが滲み出た作品だ。その頃すでに、三浦友和とのロマンスが噂され……と言うよりも、ファンのほうから交際を望む声が上がっていた2人。この曲で「日本レコード大賞」の歌唱賞を受賞した際、ステージで友和からのお祝いの電話を受け、百恵は思わず涙する。
そして、19歳になった彼女が1978年2月に出した「乙女座宮」も、先述の「夢先案内人」の世界観にも通じるロマンチックな楽曲だ。しかし、阿木、宇崎コンビの本流としてファンが持っていたイメージは、やはり「横須賀ストーリー」「イミテイション・ゴールド」といったツッパリ路線。宇崎が活躍していたダウン・タウン・ブギウギ・バンドが不良っぽいビジュアルで売っていたことも多少あるのだろう。その真骨頂は、この年5月に出された「プレイバックpart2」や、8月の「絶体絶命」で発揮される。
まさに“にっぽんの歌”
「馬鹿にしないでよ そっちのせいよ」「はっきりカタをつけてよ」といったきっぱりとしたフレーズでツッパリ……と言うより、“強く今を生きる女性”としての存在感をますます強めていった百恵。しかしながらその一方で、マスコミには恋多き女性とも曲解され、根も葉もない熱愛記事もたびたびねつ造されるなどかなり大変な時期だったようだ。
そんな中、百恵は再び底知れぬ魅力を見せつけることになる。同年11月に発表した「いい日旅立ち」。谷村新司の作詞作曲によるこの曲は、決して晴々しい旅立ちの歌ではなく、人生につまずいて新しい自分を探すために旅に出るといった意味も汲み取れる切ないナンバーで、累計で約100万枚という自身最高のセールスを記録。「ああ 日本のどこかに 私を待ってる人がいる」。堂々たる貫禄で歌い上げる様は、まさに“にっぽんの歌”。国鉄の旅行誘致キャンペーンにも使用されたこの曲は、国民歌としての地位まで獲得したと言って過言ではないだろう。
十代でデビューしたアイドルの多くがぶち当たる“大人の壁”。それまでの可愛らしい路線から表現力も追いつかないままアダルトな路線へとシフトチェンジして寿命を縮めた例はアイドル全盛の1970~80年代において多く見られたが、百恵にはその心配はまったく必要なかった。彼女は優しい歌を歌うときも、ツッパリ路線を歌うときも気取りをまったく感じさせず、ごく自然に大人の歌い手になっていた。
すでに20歳を迎えていた1979年3月の「美・サイレント」では、「あなたの○○○○が欲しいのです」「燃えてる××××が好きだから」という妄想を掻き立てる歌詞が話題となったが(実際にはそれぞれ「じょうねつ」「ときめき」と口だけ動かしていた)、やはりこの年のハイライトは12月に発表した「愛染橋」だろう。作詞・松本隆、作曲・堀内孝雄によるこの曲は、堀内がその後に作り上げていく“ポップ演歌”のニュアンスをたたえた作品。大阪弁を交えた歌詞もさり気なく歌いこなし、阿木、宇崎コンビの楽曲の隙間で、「秋桜」「いい日旅立ち」に続き、百恵はまたエンタテインナーとして類い希な個性を光らせたのだった。そして、この年の10月に行われた大阪でのコンサート会場において、百恵は友和との恋人宣言をする。
羽ばたきの記憶
百恵、21歳。1980年3月7日、三浦友和との婚約と同時に芸能界引退も発表。歌手、女優としてまだまだ可能性を残し、引退してしまうのはファンならずとも寂しい思いではあり、「やめないで」「もったいない」といった声も当然のごとく上がったのだが、結婚の日が近づくにつれ、ほとんどの人たちが彼女の背中を押して、祝福するようになった。それは百恵の歌や芝居から、1人の女性としての真摯な生き様が透けて見えていたからなのだろう。引退直前に上梓された自叙伝「蒼い時」で綴られた、百恵の複雑な生い立ちやプライベートなど、赤裸々な事実を目の当たりにしたときも、読者は意外だとは思わなかったはずだ。
そして、同年10月5日。日本武道館で開催されたラストコンサート。最後の曲「さよならの向う側」を歌い終え、百恵はステージの上に白いマイクを静かに置いた。
デビューからの約7年半の人生を、まるで1つの壮大なライブのように歌いきった歌手、山口百恵。“時代”がよかったという意見もある。グループが多くを占め、演じることによって生み出すリアリティーよりも、演者のキャラクターに見合ったリアリティーが好まれる現代のアイドルシーンでは、もう百恵のような表現者は生まれようがないのかもしれない。しかし、それゆえに彼女の輝きは時代と共に忘れ去られることはなく、リアルタイムでその活躍を体験していない世代にも届き続けている。今でも新しいスターが現れたときに彼女の名前をたびたび持ち出してしまうのは、山口百恵が唯一無二の象徴としてその存在が永遠であることの証でもあり、いつかまた彼女のようなスーパースターに出会えることへの期待を込めて、でもあるのだろう。
<終わり>
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- 久保田泰平
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音楽ライター、編集者としてさまざまな媒体で執筆中。FMおだわらで隔週月曜日に放送される“野球と音楽をつなげる”がテーマのラジオ番組「NO BASEBALL, NO LIFE. supported by Full-Count」に出演している。
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