賢雄さんとは「普通の男でやろう」と話した
──吹替キャストに関する話もお聞かせください。清水さんが演出のオファーを受けたとき、すでにキャストの方々は決まっていたんですか?
堀内賢雄さんのベン・スティラーで「LIFE!」(の吹替版)を録ろうっていうのが企画の出発点だったので、賢雄さんだけは決まっていました。ほかのキャストは賢雄さんを軸に、僕から提案していった形です。ただ山路さんは劇場吹替版と同じキャスティング。今回の座組を踏まえたうえで一番いい人に演じてほしかったので、あえて避けることもなくそこは山路さんにお願いしました。ショーンの人物像は、世界を達観して眺める器の大きさと、人生の奥行きがにじむようにと考えていましたけど、山路さん自身がそういう方ですから。
──堀内さんはこれまでも「ズーランダー」や「トロピック・サンダー/史上最低の作戦」などでベン・スティラーの吹替を担当していましたが、本人は「今回が一番抑えた演技だったかな」とコメントされていました(参照:ベン・スティラーの「LIFE!」、新たに吹替担当した堀内賢雄「一番演じたかった」)。収録の際、堀内さんにはどんな演出を?
まず賢雄さんとは「普通の男でやろう」と話しました。LIFEって「命」であり「人生」であり、「生活」でもありますよね。ウォルターに関して一番大事だと思ったのは、慎ましくも美しい「生活者」であること。だからまず、普通ってなんだろう?と考えるところから始めました。日常があって、家族がいて、仕事があって、その仕事は誰かから特に褒められることもなく。そうやって粛々と生活を送る男はいったいどんな佇まいだろうとか。物語にそういう登場人物が出てくると、いかにも自信のなさそうな男を逆に「盛って」演じてしまいがちなんですが、それはそれで「普通」ではない。まずはそこをなくそうと演出していきました。普通って簡単なようで実は一番難しいんです。賢雄さんは最初からそれをわかってくれていました。つまり一見平凡な小市民を演じきったというところで、賢雄さんは「抑えた」とおっしゃったんだと思いますが、これはすごい達成なんです。逆にウォルターの妄想のシーンでは「どこまでやっていいの?」って聞かれましたけどね。そっちは思い切り遊ぼうということで(笑)。
──堀内さんと山路さん、お二人への信頼が厚いですね。清水さんは山路さんに宛てたメモの中で、カメラマンのショーンと写真をプリントするウォルターの関係を「作曲家とピアニスト」と例えていました。音響監督と声優も同じく“共同作業者”だと思いますが、その関係性を表現するなら?
指揮者と演奏者って言えたらカッコいいかなと思ったんですけど、ちょっと違うな(笑)。音楽で例えると、僕と役者さんはオーケストラのバイオリンパートみたいなものだと思うんです。僕らが関わる時点ですでにオリジナルの映画は完成しているわけで、それがオーケストラの演奏とするなら、吹替版になっても映像やシナリオはその中の打楽器や管楽器、ほかのパートとして何も変わりませんし変えられません。つまり音楽はすでにそこに存在しています。しかも“一流”の演奏として。吹替版というのは、作品自体が完成している中、バイオリンパートだけ入れ替わるようなものだと思うんです。言ってみれば僕はそのパートリーダーで、仲間のバイオリン奏者である役者の皆さんと一緒に楽団へ加わっていく。我々は完成されたオーケストラ全体の演奏を壊さないようにそこへ参加する作業に近いのかなと思います。まぁ相手が一流であればあるほど、簡単なことじゃないんですが。
「LIFE!」の名前に遜色のない映画
──本作はベン・スティラーが自ら監督を務めていますが、彼がこの物語の中で表現したかったことについてどのように受け取りましたか?
LIFE誌が休刊しWebメディアに変わるという状況からこの映画が始まっているように、時代はデジタルに変わって、テクノロジーもとめどなく進化しています。AIやビッグデータは僕らの感覚や思考まで変えていくかもしれない。だけど意外と人間って変わらないところもたくさんあるはずですよね。身近な写真の話題で言えば、最新のデジタルで撮った写真を、あえてフィルムのアナログ風に加工するアプリが流行ったりするように。技術は変わっても感覚は変わらない。陳腐な言い方ですが、そんな時代に生きるちっぽけな僕らの中の命、人生、生活をひっくるめた「人間の本当の価値」を描きたかったんじゃないかと思います。もちろん、この作品には奇想天外な妄想の場面だったりウォルターが世界に飛び出していく展開だったり、映画的な面白さもぎっしり詰め込まれていますが、そうやっていろいろな方向を行き来しながらも、軸となるのは1人のリアルな人間の姿です。先ほど「小市民」と言いましたが、ウォルターはそのあまりに慎ましい性格ゆえ周りから、そして本人自身からも相応の評価を得ていない存在だと思うんです。映画の最後で彼は報われますが、それは彼が「英雄」になったからではありません。彼は何も変わらず、ただもともとの彼自身の姿が可視化されただけであるということ、それがこの映画のうたう希望だと思うし、そこを一番描きたかったんじゃないかっていうのは、ベン・スティラーに聞いてみたいですね(笑)。
──それでは最後に、「LIFE!」の新たな日本語吹替版を楽しみにしている読者へメッセージをお願いします。
劇中でショーンのセリフに、「シャッターを切りたくなくなるほど“美しいもの”」というのが出てきます。それがいったい何なのか、ぜひ観ていただきたい。どんな映画も本来、誰かしらの人生を描いてるはずです。この映画はまさしくタイトルが「LIFE!」。その名前に遜色のない、そのままのタイトルを堂々と付けるに足る映画だと改めて思いました。優れた作品というのは、それを通して観る人の人生と僕らの人生の間でコミュニケーションが成り立つものだと思います。この映画を通したコミュニケーションがうまく皆さんに伝わるとうれしいです。
「うれしい新録版に拍手」
文 / とり・みき
10代20代の視聴者にはピンと来ないかもしれないが、かつてすべての曜日のゴールデンタイムがどこかの局の「洋画劇場」で埋め尽くされている時代があった。民放局はそれぞれ曜日を変えて週1の看板洋画番組を持ち、さらに驚くべきことには(と書かねばならぬ時代になったことにしみじみ感慨を抱きつつ)同じ映画であっても翻訳や声優や演出を変え、その局独自の吹替版を制作し放送していたのだ。作り手のこだわりやライバル意識がそこにはあった。
現在では地上波のゴールデンタイムに定枠の洋画番組はなく、吹替洋画が放送される場合でも、たいていは劇場版吹替の流用となっている。そう、やや郷愁的な書き方をしたが、先の洋画劇場全盛時は「劇場版吹替」というものがそもそもなかった。そういう意味では吹替は廃れたのではなく、字幕版と肩を並べるクオリティと市民権を獲得したのだ、とも言える。
とはいえ……贅沢なテレビ吹替で育った我々の世代にとっては、吹替の選択肢が劇場版ただ1つというのはいかにも寂しい。そんなニーズを察知してか、最近はBSやCSのチャンネルで独自の吹替企画が多く見られるようになってきた。埋もれていた吹替音源の発掘、既存の音源への追加収録、そして、かつては地上波が担っていた独自の新録版の制作である。頻度はそう多くないが、それだけに新録の報を聞くと、まずその意気込みに拍手したくなる。
とはいえ、せっかく新録するのなら、ちゃんとその意義のある出来になっていてほしい……というわけで今回の新録版「LIFE!」を観た。
まずなんといっても主人公ウォルター・ミティ役の堀内賢雄さんの抑えた演技が素晴らしい。この映画は一応1947年の「虹を掴む男」(NHKでダニー・ケイの吹替を柳沢慎一さんがやっていた)のリメイクということだが、実は意外と妄想シーンが少ない。妄想ごとに違うキャラクターに変身するのであれば、それはむしろいつもの賢雄さんの得意技であろう。しかし、全編を通じて印象に残るのは主演ベン・スティラーの感情を押し殺しているかのような無表情だ。そんな中にももちろん微かな機微はあるのだが、これを賢雄さんが繊細な声の演技で的確に表現しているのだ。
コメディの吹替というのは難しい。
映画や舞台のコメディの基本は演者が笑わぬこと、である。しかしながらテレビのバラエティではある時期から芸人やスタッフの吹き出しが視聴者の笑いを誘発する方法として重視されるようになった。最近ではこれにテロップまで上乗せしてくる。
日本の吹替も、最初に述べたように劇場でなくテレビというメディアで発達してきたため、どうしても視聴者の注意を画面へ引く方向で試行錯誤がなされてきた。結果、コメディの場合は必要以上に「盛って」しまうのである。本来生真面目に演じてこそ笑えるような場面であっても、演技はオーバーアクト気味になり、原典にないギャグも付け足されたりした(時には口が閉じていても)。劇場オフィシャル版でない分、映画会社の規制も緩やかだった。もちろん我々視聴者もそれをあえて楽しんでいたのだけれど。
見落とされがちな点だがこれにはハード面も関係していたと思う。当時の受像器の画質クオリティでは、声の演技を「盛る」ことで、わかりづらい外国人俳優のキャラクターの違いを際立たせていた。また受像器のスピーカー性能も、スタジオのマイクや録音機材も、ウィスパーの細やかな芝居にはなかなか対応できていなかった。
しかし、今は劇場版吹替、そしてテレビ放映でもハイビジョン、4K、8Kの時代だ。俳優のごく細かい表情まで画面は再現する。吹替の声の演技に関してもそれは同じだ。ベン・スティラーの感情の押し出しの少ない芝居を、それと同じレベルで賢雄さんが見事に日本語にしてくれている。それは録音技術だけではなく、檀臣幸さん亡き後ほぼスティラーと一心同体である賢雄さんだからできる演技だ(※編集部注:檀は「ナイト ミュージアム」など、多くの作品でスティラーの吹替を担当。檀の死去を受け、「ナイト ミュージアム/エジプト王の秘密」から同役を堀内が引き継いだ)。とにかくこの映画では「抑えている」堀内賢雄を堪能してほしい。
こういうときに相手役が違うプランで声の芝居を組み立てたりするとちぐはぐになってしまうのだが、クリステン・ウィグ(シェリル・メルホフ役)の安藤麻吹さんもその意をしっかり受け止めて「大人の」吹替をしている。特別出演に近いショーン・ペン(ショーン・オコンネル役)だが、ここは劇場版と同じく定番・山路和弘さんというのも「外してない、わかってる!」という感じでうれしい。もちろん同じ山路さんでも新録で翻訳も違うので、可能であれば聞き比べてみると面白いかもしれない。
そしてさすがの貫禄と言ってよいのが、出演シーンは少ないながらも、ただ出てきてしゃべっているだけで我々に映画史的感動を与えてくれるシャーリー・マクレーン(エドナ・ミティ役)。この感動を原典同様に再現するためには、吹替もまたそういう大ベテランを起用しなくてはいけない。劇場版は沢田敏子さん、そして今回は谷育子さん。いずれもまったく文句はありません。
最後にトリビア的な蛇足を2つ。
劇中で「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」のパロディシーンがあるのだが、これはブラッド・ピット主演作で、ピットもまた賢雄さんの担当俳優だ。だがよく考えたら「ベンジャミン」の吹替は山寺宏一さんで、原典では担当できなかった賢雄さんがパロディでリベンジした形。
また、アイスランドのシーンで「プリニー式噴火」という珍しいセリフが出てくるのだが、この「プリニー」とは現在僕とヤマザキマリさんが連載している「プリニウス」のことである。実はこの部分、劇場版の吹替ではただの「噴火」となっていた(原語でもplinianとは言ってないように聞こえるのだが……)。しかし2010年のアイスランドのエイヤフィヤトラヨークトル火山の噴火は確かにプリニー式噴火だったのである。吹替の工夫による情報の補完だが、俺得でうれしい気分になってしまった。