「あみこ」には、花火のように弾けているものがある(行定)
──いろんなコンペやコンテストがある中、お二人はPFFをどういうふうに位置付けていらっしゃいますか?
行定 映画作りで一番いいのは、想像した瞬間にすぐに撮ることなんですよ。吟味するのに時間をかけると、知らなくていいことを知ってしまうとか、よからぬことが生まれてきて、純度や新鮮さがどんどんなくなっていく。PFFで選ばれる作品っていうのは、行き当たりばったりで作っていたり、技術的には弱かったりするんだけど、「ここにあるものをとりあえず撮る!」っていう意志があると思うんです。だから、作家の第1章を見る、突出した才能を見つけ出すという意味では本当にうってつけの場なんだろうと思います。
──最終審査員もそういう基準で評価するんでしょうか?
行定 審査員としてすごく感じたのは、PFFの方たちの基準って、僕たちでは理解できないところがあるんです。「これの何がいいの?」って審査員から総すかんを食らうような人材が、あとになって世に出てきたりする。実際、そういう人たちの作品って記憶に残ってるんですよ。それを見つけるのはもうPFFのセンスですよね。そういうところから山中さんの「あみこ」みたいな作品が出てきたりするんです。
──最終審査員の皆さんは何本くらいに絞られた状態で審査するんでしょうか?
行定 18本から20本くらいですね。尺度として、プロとして通用するかみたいなことで観ちゃいけない。PFFでは、純度のあるものに、純粋な目で向き合わないといけないんですよ。例えば「あみこ」には、何か炸裂している、花火のように弾けてるものがあると思うわけです。PFFってそういうことの連続なんです。今、花火って言ったけど、打ち上げていい色を出すのが一流の花火職人なんだけど、「あみこ」の場合は単色だったり、考えもつかないような形をしていたりしていて、そういうものの中にキャラクターの心情や衝動を潜ませて演出してますよね。風呂に入ってるシーンでレモンをかじるのも、どういうわけかはわからないんだけど、印象に残る。あと、パヴェーゼの「美しい夏」を読んでますよね。
山中 はい。よく観てくださってありがとうございます。
行定 あれは処女喪失の小説だよね。だから処女喪失を夢見てる女の子の悶々みたいなものがあるんだけど、画面の中ではまったく違ったテンションで転がっていたり、微妙に優雅な感じもする空気があったりする。しかも「こういう画が撮りたい!」っていう衝動の連続ではなくて、ちゃんと物語に組み込まれていて、いい意味で収束させてるから映画になってるんだよね。人ってないものねだりだから、「最後はもっと破綻してもよかったんだよ」みたいなことを言いがちなんですよ。
山中 確かに言われますね。「もっとできたでしょう?」みたいなことを。
行定 言われるでしょ(笑)。でもそれって実は簡単なんだよね。
山中 簡単ですよね。ぶっ飛ぶのはけっこう簡単です。
行定 ちゃんとちっちゃいところに収束させるから、あみこっていう人間がまだ本当に等身大の子供だったんだっていうことがわかる。それをむちゃくちゃにして終わるっていうのは大人の考えることで、非常につまらないと思うわけです。山中さんはそういうことができてるから、たぶん今後はプロとしても可能性みたいなものを見つけ出せたりするのかなって思う。問題なのは、ここからは第2章で、吟味しないといけない、選択しないといけなくなるってことですね。でもPFFのよさは、こうしたいって思うものを全部作品に残していけること。だから僕らも勉強になるんです。ただPFFに出てくるような映画は僕らにはもう撮れませんけど。
技術がなくても純度があれば、絶対に拾ってくれる(山中)
──山中監督は19歳でPFFに出そうと「あみこ」を撮ったわけですが、どこに勝算を持って作ったんでしょうか?
山中 でも私、それこそ審査員の賞はもらってないんですよ。もらったのは観客賞で。最後にコメントをもらいに行ったときも(最終審査員だった)李相日監督とかは全然ハマってないんだなって感じでした(笑)。
行定 わかるよ、李くんには絶対にハマらないよ!(笑)
山中 だから入選したにもかかわらず、ぴあが終わっても、そんなに自信がなかったですね。撮る前の勝算は、学校で先輩たちの卒業制作を観る機会があって、素直につまんないなって思えたことです。技術的にはしっかりしていて、きれいに撮られているんですけど、だからこそ頭一つ抜けていない感じがよくわかってしまう。むしろ、無理をして予算をそっちに割くより、技術的なことはおろそかにしてもいいんじゃないかと思ってました。「あみこ」も、クオリティの高い映像だったら全然感触が違ったんじゃないかなと思いますし。
──つまり最初から純度で勝負する気だったわけですか?
山中 そうですね。技術に関しては、まったく気にしないでいようと意識していましたね。技術がなくても純度があれば、PFFは絶対に拾ってくれるだろうって信じていました。
行定 PFFの機能って、素人でも「こいつはすごい才能を持ってるよ」っていう原石みたいなものを発掘することなんですよ。プロ的な、即戦力的なものを見つけ出す映画祭やコンテストもあると思うんですけど、PFFは絶対にそうじゃない。そして、(先鋭的な監督を紹介する)ベルリン国際映画祭のフォーラム部門に招待されることが多いのも納得。「あみこ」もベルリンに行ったんだよね。
──ベルリンで現地の反応っていうのはどうでしたか?
山中 お客さんが、ここが好き、ここは嫌い、っていうのをはっきりぶつけてくるというか、日本より反応がわかりやすいですね。賛否まるっと含めて受け入れられてる感じはありました。日本だと、自主映画は映画好きなお客さんがよく観に来るから、探りを入れてくる人もいるんですよ。ちょっとうがった見方をするというか。どっちともとれないあいまいな感想を言われたり(笑)。
──「あんた、才能あるんだって? どんなものか観せてもらおうか」みたいな。
山中 そうそう。それはPFFの上映でも少し感じたんですけど(笑)。ベルリンはまったくそういうのがなくて、作家として受け入れてくれる感覚はすごく心地よかったですね。
──行定監督も、海外の映画祭に行かれることは多いと思うんですけど、どういう意義がありますか?
行定 僕はあんまり海外の映画祭ありきではないです。最初のうちは選出されるとやっぱりうれしいですよ。山中さんが言ったように反応がダイレクトで明確ですからね。ちゃんと1本の作品として、映画のアイデンティティを探ろうとしてくれる。ただ僕は、映画のアイデンティティとして、日本で生まれたものっていう前提で作ってるから、海外に持って行かれようが行かれまいが構わない。出品されたら宣伝効果も得られるし、海外の方たちに知ってもらえるのはありがたいとは思います。映画祭でいいのは海外の俳優と出会ったり、海外で撮るみたいなことが実現したりもするわけですよ。それで日本で企画が通らない、1つの作品が救われるんですよね。お金が集まらないものが実現する。その可能性のために行ってる部分もありますね。
──山中監督は以前に、別に映画を作るのに日本にこだわる気持ちはないとおっしゃっていましたね。
山中 そうですね。撮る土地はどこでもいいです。場所はどこでもいいんですけど、俳優が日本人である限りは、映画の中でしゃべっている言語は日本語でありたいと思っています。行動範囲は広げたいのですが、日本語という言語で映画を作ることの意義について最近は考えてます。
──山中監督は、これからPFFに応募する人からは、1つの関門を突破した成功者として見られますよね。
山中 でも本当は、もう1回PFFに応募したいって思ってたんです。
──そうなるとこれから応募する人、全員がライバルってことですか?
山中 いえ、貴重な1人分を奪うことになるかもしれないので応募するのは遠慮しておきます(笑)。私はやっぱりPFFに対して信頼を持っていて、きっと出てくるべき人が拾い上げられるんだろうなと思っているんです。ただ、傾向と対策は意味がないっていうのはありますね。“純度”っていうことを意識すると今度は“純度”について考えてしまうだろうから。
行定 そうそう。無自覚なのがいいってことだよね。
山中 無自覚がいいって言っちゃうと、今度は無自覚を自覚しちゃいますし、難しいですよね。でも、もう1回出したいと本気で思うほどにPFFは面白いです! それに、映画祭期間中が体感としてあっという間に終わってしまったので再び実感したいです(笑)。
行定 審査員も、自分の価値観を懸けて映画と向き合っているんです。要するに代理戦争ですよね。この映画がいいっていう気持ちをお互いにぶつけ合って、戦った結果が受賞作になる。PFFの審査はすべて多数決なしの徹底議論なので、「もうこれでいいよね」みたいな判断は一切してないです。どの作品も真剣に観て、それぞれが自分の価値観を懸けて審査していますから。
──応募するほうも審査するほうも真剣勝負ということですね。本日はどうもありがとうございました。
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セレクション・メンバーによる1次、2次審査を経て、7月に入選作品を発表。映画監督や俳優など5名のクリエイターで構成された最終審査員が、入選作の中からグランプリ、準グランプリ、審査員特別賞を決定する。9月の第41回ぴあフィルムフェスティバルで一般の観客へ向けた上映後、PFFアワード2019表彰式にて各賞が発表され、受賞者には賞金など副賞を授与。その後は、全国で順次開催されるぴあフィルムフェスティバルでの上映や、国内外の映画祭での上映が待っている。