ゾンビだった人間が理性を取り戻して社会復帰したら? エレン・ペイジが製作・出演した「CURED キュアード」は、そんな問いかけに真正面から答える近未来スリラー。3月20日より全国で順次公開される。映画ナタリーではホラー映画を独自の切り口で紹介する“人喰いツイッタラー”こと人間食べ食べカエル、単著「映画と残酷」で知られるライターで評論家の氏家譲寿(ナマニク)にレビューを依頼。ジャンル映画に精通した2人に、それぞれ異なる視点から進化系ゾンビ映画の魅力を紐解いてもらった。
レビュー / 人間食べ食べカエル、氏家譲寿(ナマニク) 文 / 奥富敏晴
この2カ月は人類の歴史上、もっとも多くの人々がウイルスについて思考を巡らせた期間だったかもしれない。いまだ収束を見ない新型コロナウイルス感染症(COVID-19)。「CURED キュアード」が描くのは、感染した者を凶暴化させる新種の病原体メイズウイルスのパンデミックが収束した“あとの世界”だ。そこでは“回復者”と呼ばれる元感染者が社会的不平等にさらされている。監督のデヴィッド・フレインは、人種差別や宗教対立、移民問題などによって分断された現代社会の状況を映画に反映させたが、奇しくも今まさに世界で巻き起こっている問題に呼応する1本となった。
回復者
6年前のパンデミックにより凶暴化したものの、画期的な治療によって理性を取り戻した元感染者たち。主人公セナンは人を噛み殺した記憶に苛まれながら社会復帰を果たす。彼らは理不尽な差別に不満を募らせ、結束を強めていく。
感染者
治療効果が見られず、凶暴化したまま施設に隔離されている人々。回復者は体にウイルスが一部残存しているため襲うことはない。映画の舞台アイルランドでは、治る見込みのない感染者5000人の安楽死を求める声も高まっている。
一部例外はあるものの、一度変異してしまったら最期、二度ともとには戻れないのがゾンビの基本ルールである。実際、ゾンビが恐ろしいのは、これまで親しかった人が理性を失い人肉を求める獣と化して襲ってくる、動きを止めるには脳を破壊してトドメを刺すしかないという救いのなさによるところも大きい。ところが「CURED キュアード」では、なんとゾンビ状態が治せるものとして描かれる。感染して人を食った者が治療によって(100%ではないが)再び人間性を取り戻すという、かなり思い切った設定が取り入れられている。ゾンビが治せるようになったら恐怖も半減してしまうのでは?と思ったが、その考えは甘かった。ゾンビから戻れたことで発生する問題もある。物語の舞台をゾンビ禍が収束した6年後のアイルランドにして、ゾンビ襲撃の代わりに元感染者の苦悩や彼らに対する社会の反応に焦点を当てることで、新しい角度からゾンビが人々に与える影響を描き出している。
本作ではゾンビ状態を治療することはできるが、人に戻ったあとも、ゾンビだったときの記憶は残り続ける。てっきり、発症中の記憶はなくなっているものかと思ったらそのようなことはなく、人を貪り食った映像が脳に焼き付いたままなのだ。彼らは、ことあるごとにゾンビ時代の“食事”がフラッシュバックし、それが原因でPTSDを発症してしまう。これは非常につらい。自分が人を殺して食った事実と常に向き合わなければならない。それは、どんなに強靭な精神の持ち主でも耐え続けるのは難しいだろう。また、記憶に苦しめられるのは感染しなかった側の人たちも同様で、家族や恋人を食われた記憶は当然残ったまま。もうゾンビではないからと言っても、元感染者に対しての恨みは残るし、また人を食べるのではないかという不安がずっと付きまとう。惨劇自体が終わっても、その記憶が両者を蝕み続けるのだ。
元感染者たちは、毎日のように感染しなかった側の人たちから過激なバッシングを受け続け、酷いときには襲撃されて命の危険に晒される。メディアの煽りも入り、世間の偏見の目はどんどん強まる一方。加えて、まともな仕事に就くこともできない。ゾンビから人間に戻れても、社会に受け入れられず、かつての日常を取り戻すことはほぼ不可能な状態だ。社会から弾き出されたところから復帰することの難しさ、そして脅威と認定した相手への恐怖心から生み出される攻撃性や残酷さが、治せるゾンビという設定を通じて生々しく描かれている。
ゾンビに一度変異したら二度と戻れないのも地獄だが、人間に戻ってもまた新たな地獄が待ち受ける。記憶に苦しめられ、社会に追いつめられる。本作で描かれる元感染者たちとそれ以外の人たちの衝突は、昨今のウイルス騒動にも通じるところがある。今のタイミングで観ると、より心が抉られること請け合いだ。十分に健康に気を付けていただいたうえで、ぜひこの機会に鑑賞をお勧めしたい。
もしあなたが「CURED キュアード」に血みどろゾンビ映画を期待しているなら、その期待は失望に終わるだろう。なぜなら本作は失望を描いているからだ。ジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」(1968年)以降、ごく一部のスラップスティックな娯楽作品を除き、多くのゾンビ映画は社会批判を行ってきた。
「CURED キュアード」は、社会がいかに欺瞞と憎悪に満ちているのかを見せつけてくる。この映画は“治ってしまった”ゾンビ、つまり元ゾンビであった人間と彼らを受け入れようとする社会の2つに焦点を当て、社会批判を試みている。
元ゾンビたちは、自分がゾンビであった頃の記憶に苦しめられている。一方、元ゾンビたちを取り巻く社会は、憎しみを向ける者、慈愛をもって社会復帰を助ける者、再感染の恐怖から差別を行う者……それぞれが好き勝手にいがみ合っている。
これを本作は、世界的なポストパンデミックとしては描かず、アイルランドの小さな町の出来事として描きリアリティを倍増させている。なぜ、アイルランドを舞台にすると現実感が増すのか? それは、北アイルランド問題を連想させるからだ。アイルランドではカトリックが圧倒的多数だが、イギリスの一部である北アイルランドではプロテスタントが多数派なのである。そのため、北アイルランドではプロテスタント教徒がカトリック教徒に対して差別や迫害を行うといった宗教紛争(※)が発生したのである。双方のテロ行為により多くの人命が失われたが、これはそのまま本作の“元ゾンビ”と“一般人”の争いに置き換えることができる。本作で“元ゾンビ”が職業選択の自由を奪われ、参政権を剥奪されるなどの迫害を受けるのは、先の紛争におけるカトリックが受けたそれと同じだ。さらに後半、隔離病棟から逃げ出したゾンビが、人を襲い食い散らかすゾンビ映画らしい描写がいくつかあるほかは、単純なゾンビの恐怖というより、元ゾンビによるテロ行為がもたらす恐怖という印象が強い。なぜなら、元ゾンビたちは自爆してでもゾンビを街中に解き放つなど、確固たる連帯意識を持ち、死ぬことなど微塵も恐れていないからだ。
だがこれは、メディアや政治家が、視聴率や点数稼ぎのために「奴らは怖い、奴らを恐れろ」と恐怖を煽り、差別し、一般人を混乱にたたき込んで、“元ゾンビ”を失望のどん底にたたき込んだ結果として描かれている。これも先の北アイルランド問題と同じ構図だ。
こう考えると、本作のメインテーマは、ゾンビそのものでなく、マジョリティがマイノリティに対して抱く“不寛容”をテーマにしていることが明らかだ。本作の“ゾンビ”はいわゆる“マクガフィン”である。ゾンビでなくてもいいのだ。先に述べたように宗教でもいい。もっと言うならLGBTの人々でも、移民でも、病人でも、前科者でも、なんでもいいのだ。想像してみてほしい、あなたは犯罪を犯した人間を許せるか? あなたはあなたの仕事を奪った移民を許せるか? あなたは家族から性的マイノリティであると打ち明けられたとき、素直に受け入れることができるだろうか?
素直にうなずけるだろうか? うなずけるなら、1つ明らかにしておくべき事実がある。本作、最初に付けられていた邦題は「元感染者」だ。“CURED”とほぼ同じ意味合いだが、とある理由により、タイトルは差し替えられた。さて、この“元感染者”という直接的な言葉をあなたはどう受け止めるだろうか? あなたは今、“元感染者”を受け入れられるだろうか?
※現在もアイルランドでは散発的な暴力事件が発生しているが、宗教紛争としては20世紀末に終息している。
怒りと分裂の空気を作り出すそうした振る舞いは、どんな病気よりもはるかに有害だ。
恐怖を誇張する行為こそが「CURED キュアード」の世界の基礎を築いている。
──デヴィッド・フレイン(監督)