「ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男」が8月31日に公開となる。1980年、世界中が沸いたビヨン・ボルグとジョン・マッケンローのウィンブルドン決勝戦を映画化した本作。この特集では、一見正反対だが、実は似た者同士であったボルグとマッケンローの関係性をイラストで紹介するほか、音楽や映画カルチャーの評論で多くの人から支持を集めるジャーナリスト・宇野維正によるレビューをお届けする。
さらに当時のボルグと瓜二つなビジュアルで注目を集め、北欧から世界へと羽ばたいた俳優スベリル・グドナソンのインタビューもお見逃しなく!
イラスト / チヤキ 文 / 宇野維正(レビュー)、金須晶子(P2)
イラスト / チヤキ
2人の天才が出会う、奇跡と美しさ
文 / 宇野維正
1つの世界でトップにまで上り詰めた者には、その孤高の場所からしか見ることのできない特別な「景色」が見えているはずだ。その「景色」を想像することも楽しいが、自分がより興味があるのは、その「景色」の中に突然ライバルと呼ばれるような他者が現れたとき、彼ら、彼女らが、一体どんな思いにとらわれるのかを想像することだ。きっとそこには、畏れや嫉妬や敵愾心といった感情だけではなく、「ようやく自分は1人ではなくなった」という安堵に近い感情も入り混じっているのではないか。
ジョン・レノンとミック・ジャガー、マイケル・ジャクソンとプリンス、ジェイ・Zとカニエ・ウェスト、あるいは日本だと椎名林檎と宇多田ヒカル。そのようなライバル同士はポピュラーミュージックの世界でもすぐに思い浮かぶが、物語としてより語られやすいのは、記録や順位やタイトル争いにおいて結果がより明確に出るアスリートの世界だ。実際、伝記映画の題材として、トップ・アスリートのライバル関係が題材とされる機会はこのところ増えてきている。近年の秀作としては、F1ドライバーのジェームズ・ハントとニキ・ラウダの友情を描いたロン・ハワード監督「ラッシュ/プライドと友情」(2013年)、タイトル通りトーニャ・ハーディングに寄った作品ではあるが、フィギュアスケート選手のトーニャ・ハーディングとナンシー・ケリガンの確執を描いたグレイグ・ガレスピー監督「アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル」(2017年)などが挙げられる。
「ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男」は、そのような先行する「ライバル・アスリートものの秀作」と比べても、その「スリル」や「感動」においてまったく引けを取らず、「美しさ」においては完全に凌駕するような作品に仕上がっている。冒頭、練習を終えたボルグが愛車ポルシェの鍵をなくして自宅のあるモナコの街をさまようシーンのエレガントな質感や語り口から強烈に感じるのは、これがハリウッド映画ではなくヨーロッパ映画であるということ(本作はビヨン・ボルグの母国であるスウェーデン、そしてデンマークとフィンランドの3カ国合作だ)。主にドキュメンタリー作品の分野でキャリアを積んできたヤヌス・メッツ監督にとってこれが初の長編フィクション作品となるが、本作の画面彩度を抑えたザラついた感触のドキュメンタリー的な映像と、ハリウッド映画的なわかりやすさとは異なる観客を心地よく突き放すストーリーテリングは、この題材を描く際のベストな選択であったと思う。
というのも、アスリートたちの勝負の世界は放っておいてもホットな世界なので、映画の作り手がそのホットさにあまりにもシンクロしすぎると、凡庸なスポ根ものに陥ってしまうことも多い。特に本作のような伝記映画の場合、物語のカタルシスは観客の多くがすでに知っている勝負の行方ではなくアスリートたちの内面にある。その燃えたぎる内面を描写するには、本作のようなクールなタッチのほうが好ましい。念のために言っておくと、ビヨン・ボルグとジョン・マッケンローについてその名前しか知らないような若い観客も、本作を観る前に事前に彼らの生い立ちやキャリアをググっておくような必要はない。むしろ、本作で描かれる1980年のウィンブルドン決勝戦の「まるで映画のような」勝負の行方を知らない人が心底うらやましい。きっと、本作のクライマックスでの興奮は何倍にも膨れ上がるだろうから。
本作を観て改めて思い知るのは、(チームスポーツのアスリートもある程度そうだとは思うが)特にテニスのような個人競技で世界のトップに立つアスリートは、その精神の強靭さにおいても繊細さにおいても、限りなく芸術家に近いということだ。いや、その世界的な人気や社会的な影響力を踏まえたら、彼らが背負っているものはどんな芸術家よりも重いかもしれない。「ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男」は単純にプロ・テニス史最大の世界的スター2人を題材にしたスポーツ映画ではない。「天才とは何か?」という普遍的なテーマ、そして「天才と天才が出会う、その奇跡と美しさ」を余すことなく描いた、観客の心にその痕跡が一生残るような見事な作品だ。