「第七回新藤兼人平和映画祭」のトークイベントが本日8月11日に東京・新文芸坐で行われ、
「平和を祈る女性たち ~映画が伝えた原爆・引揚げ~」と副題が付いた今回の映画祭では、戦争や原爆によって平穏な暮らしを奪われた女性たちを描いた新旧5本の作品を上映。この日は山田の監督作「
新文芸坐のある池袋にはゆかりがあるという山田。松竹で助監督をしていた頃、“芝居”を勉強するために池袋の舞台芸術学院に通っていたことを明かすと、「撮影所のある大船から池袋に毎日通って。帰り道は『疲れたな、明日も朝が早いな』と思いながら物騒な夜の池袋を歩きました。修行時代でしたね」としみじみと懐かしんだ。
今回の企画のために、山田は1952年に日本で初めて原爆の被害を公開した雑誌「アサヒグラフ」を持参。「終戦後、日本を占領していたアメリカは、原爆の被害を一切報道してはならないと規制をしていたんです。それで日本が独立してしばらくして、この雑誌が出版されました」と説明すると、「当時僕は大学生でしたけれども、1日で売り切れちゃって。雑誌のページを1枚1枚貼った大学の立て看板に、黒山の人だかりができました。僕たちは『これが原爆なんだ』ということを、実はそこで初めて知ったのです」と当時の状況を振り返った。
2008年公開の「母べえ」、2015年公開の「母と暮せば」と近年になって戦争を題材にした映画を撮っていることについて尋ねられると、山田は「こういうことを訴えなければならない、という気持ちが先にあって映画を作るわけではない。表現したい物語に出会ったのが、たまたまこの時代だったんです」と述べる。それぞれの作品について「『母べえ』の原作を読んだときは、とても面白くてユーモラスなんだけど、その背景には軍国主義時代の空気が漂っているということが興味深かった。『母と暮せば』は、井上ひさしさんの構想を娘さんから聞きました。むごたらしい戦争をそのまま描くのではなく、どうしても息子が死んだことに納得できない母親の悲劇と、息子の恋人が新しい恋人を見つけるプロセスを描くことで1つのドラマになるんじゃないかと思ったんです」と語った。
山田は1950年代から1960年代にかけての日本映画界を回想して「豊かな時代だった。その時代に映画界に入れたことは幸運でした」と目を細めつつ、「こういう映画館が健在であることはうれしい。今はいろんな鑑賞方法がありますが、映画館に行くことをむしろ新しい体験として、若い人も含めて楽しんでほしい。それで日本の映画を愛する人が回復してほしいですね。ぜひ皆さん映画をいつまでも愛してください」と観客に呼びかけ、イベントを終えた。
なお、現在同劇場にて特集上映「8.15終戦の日 特別企画 映画を通して、歴史や社会を考える 戦争 軍隊 原爆 冤罪…」が開催中。8月17日までの実施となる。
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山田洋次、平和映画祭で原爆被害や「母べえ」「母と暮せば」制作を語る
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