テレビマンが作るドキュメンタリー映画 #2 [バックナンバー]
足立拓朗(東海テレビ) / 映画制作の原点は“人生の転機”となった御嶽山噴火の取材
ドキュメンタリーは、紛れもなく取材対象の魅力に助けられている
2024年2月16日 12:15 9
近年、注目を浴びているテレビ局発のドキュメンタリー映画。連載コラム「テレビマンが作るドキュメンタリー映画」では、普段はテレビ局のさまざまな部署で働く作り手に、会社員ならではの経歴や、テレビと映画の違い・共通点をテレビマン目線で語ってもらう。
第2回では、1月27日から全国で順次公開中の映画「
取材・
御嶽山噴火のご遺族の取材が人生の転機
──まずは、足立さんが東海テレビに入社してからの経歴をお聞きしたいです。
僕は本社の外勤営業を2年やって、そのあと報道部です。理系の大学院卒なので技術職で受けていたんですが、採用時の電話で「君、一般職できそうだよね」と言われ、もちろん内定をもらえるのはうれしいので「面白そうなんでOKです!」みたいな感じ。その後一度も技術畑に行くことなく、今に至ります。
──もともとは技術職の中で何を志望していたんでしょうか?
僕が入社した当時はデータ放送をどう駆使するか、みたいな時代だったので、それを使った何かをやろうとエントリーシートに書いていました。
──じゃあカメラマンや音声さんとして現場に出るというよりは、システムを作るような方向に興味があったんですね。となると……営業の外勤は合ってましたか?
全然楽しくなかったです。
──(笑)。
スポンサーを決めてこないと会社に入れてもらえない、全国の中でもめちゃくちゃ厳しい営業部だったんですよ。会社の裏にちっちゃい公園があるんですけど、そこで新人の営業マンが泣きそうな顔で座っている光景は、わりとうちの伝統みたいな感じです。きつかったです(笑)。
──その後の報道部への異動も入社時は予想してなかったと思いますが、主にどういう仕事をされてきたんですか?
最初は遊軍としていろんな現場に行き、トヨタ自動車やJR東海などを取材する経済担当もやりつつ、日頃のやわらかいネタも取材してた感じですね。報道部に来てからすぐに御嶽山の噴火(2014年)が起きたんですけど、ご遺族の取材に行ってから交流がずっと続いていたのもあって「御嶽山の取材はお前が専任だ」って感じになったんです。3カ月、6カ月、1年といった節目のたびにニュース内で特集を作って、報道に来て3年目のとき(2017年)にドキュメンタリー番組として放送することになりました。それが番組としては1作目ですね。これがなければ今の自分はないと思っているので、人生の転機だったかなと。
──それまでの特集の積み重ねがあって、番組まで作ろうという自然な流れだったんですか?
番組を放送する半年前ぐらいに、せっかくこれだけ取材してきたから何かもっとできないかな?とうじうじ悩んでいたら、先輩の土方(宏史)が「ドキュメンタリーでやってみろよ」と。それでドキュメンタリーのチームに入って、ご遺族の密着取材を始めました。
──ドキュメンタリーの部門は報道部とは別にあるんですか?
報道部の中にあります。座席は一緒ですが「足立はここから半年間、ドキュメンタリーやるから、しばらく仕事振らないで」って周知されるんです。災害時の稼働や夜勤(の当番)はするけど、日々のニュース用の取材には絶対に行かされない。
──それ自体、過去にほかの局にいた人間からすると環境としてすごく整っている気がしていて。これは東海テレビさんが今までもドキュメンタリー番組や映画を作ってきた土壌があるからかなと思うんですが。
完全にそうですね。それが強みです。
──御嶽山の番組を放送したあとも、定期的にドキュメンタリー番組を作っていたんですか?
そこから番組制作は、今回の映画のもとになった「はだかのER 救命救急の砦2021-22」(2022年放送)まで飛んでますね。報道部の中にあるスポーツ担当を経験したあと、2年間は県警の担当で(捜査)当局の取材もしていました。そんな感じで御嶽山の番組から3、4年経ってしまいましたが、報道マンとしてはやるべき仕事だったなと思っています。
テレビ版に悔いがあったのをプロデューサーに見透かされた
──映画「その鼓動に耳をあてよ」では、年間1万台の救急車を受け入れる愛知・名古屋掖済会病院のER(救命救急センター)に密着されました。取材をすることになったきっかけをお聞きしたいです。
プロデューサーの土方が(記者として)現場に出ていた2014年に、掖済会病院のERをニュース特集として10分枠で取材しているんです。そこからしばらく経ってコロナ禍が始まり、取材できる病院がないとなったときに、土方が「そういえば、あのときの北川(喜己)センター長(現・同院院長)なら取材させてくれるかも」と連絡して、ニュース用の取材に行ったのが僕、その企画のデスクが土方でした。時を経て2人の関係が僕に引き継がれ、何度か取材しに行って、ニュースの特集を計2回放送しました。そのときからこの病院が面白いと思っていて。
──どこが面白いと感じたんでしょうか。
掖済会病院のERが“断らない救急”を掲げていることもだし、大変なのに皆さんがすごくフランクでオープンだったのがいいなって。同時にやっていた警察担当も自分なりにはがんばったのですが、任期が終わるときに次の目標として「ドキュメンタリーをもう1本やりたいな」と考えていて、題材に悩んでいたんです。そんなとき、コロナ禍に救急医たちがZoomインタビューを受けているのをテレビで観て、すごく違和感を覚えました。
──違和感とは、具体的にはどういった部分に?
気持ち悪くないですか? Zoomインタビューって。専門家や教授のコメントだけならいいと思うんですけど、「大変だ」とか「苦しいです」って医師に言葉で言わせることじゃないし、それならポツンと座ってるシーンが1つあったほうが伝わる。病院に入れないのはコロナ禍だから仕方がないし悪いわけじゃないんですけど、なんとかその扉をこじ開けて、医師たちの本当の姿がどんなものなのかを映してみたいなと。そこで「北川先生の掖済会病院なら、お願いしたら(カメラを)入れさせてもらえるんじゃないか」と思い至ったという流れです。
──当時、テレビのニュースではZoomでのリモート取材の映像ばかり流れていましたね。
それに加えて、患者はともかく、看護師とか医者がなんでモザイクなんだろう?とも思っていて。悪いことしてないのに。「完全タブーなしで取材させてくれないか」っていう話を北川先生のところにしに行ったら「うん、いいよ」みたいな感じであっさりOKでした。なんなら“望むところだ感”があった気がします。
──“断らない”っていうのが、取材に対してもだったんですね。
そうです。番組(本編)は78分で、土曜の14時から放送しました。
──やっぱりすごい! ドキュメンタリー番組って15分とか30分がほとんどで、枠があっても深夜や早朝が多いですもんね。全国的にもまれだと思います。
それは今も受け継がれていますね。制作環境だけじゃなくて、全社としてその枠を作ってくれるのがありがたいです。ただ、「ドキュメンタリー番組を作るぞ」とスタートすることはあっても、初めから「映画にするぞ」で出発しているものは1つもなくて、番組を作ってみて「これは映画化したほうがいいぞ」になるかどうかなんです。うちのドキュメンタリーのすべてを作った人間、プロデューサーの阿武野(勝彦)がそう言うかどうか。実は「はだかのER」も、一度テレビで放送して終わっていたんですけど、(第77回)文化庁芸術祭に出品するときに、普通はそのまま出すところ、再編集する機会をいただいてガラッと変えたんです。それを観た阿武野が「映画にしよう」と。だから本来なら映画にならなかったものなんですよね。1回目の放送から再編集までは半年ぐらい空きましたし。
──足立さんとしても、ドキュメンタリー番組として放送することが1つのゴールだったから、映画にならずに終わっちゃったという感じではなかった?
でも僕、テレビ版に悔いがたくさんあって。もやもやし続けていたのを阿武野に見透かされたんだと思います。テレビ版のときは、すごく簡単に言うと「コロナと戦ったERの牙城が崩れてしまいました」で終わっていました。実際の取材では、救急医の立場とか、救急医療がどれだけ世の中にとって大事なのかという側面も取材していて、番組にも盛り込もうとしていたんですけど、僕の実力不足でとっ散らかっちゃって削ったんです。再編集版では、あのとき入れられなかった要素を盛り込んで筋を変えてみようと、番組の方向性をかなり考え直しました。
──映画を観た印象としては、どんな患者にも対応しなければならない救急医と、専門医との立ち位置の違いとかが面白かったんですが。
あれはテレビ版にはなかったんですよ。だから阿武野が「なんか足りねえな」と思うのもわかるし、僕ももやもやしてたし。実力不足で1回目からそれができなかったので、カメラマンに対しても、編集マンに対しても、後ろめたい気持ちで半年間過ごしていました。
ドキュメンタリーは、紛れもなく取材対象の魅力に助けられている
──再編集したものを映画化するにあたって、意識したことはありますか?
そもそも僕らのドキュメンタリーの作り方って、(テレビ業界の人から見ると)映画的って言われるんです。実際、民放連への出品で賞を争うときも、他局の人から「映画っぽすぎて審査員はわかってないよ」みたいなことを言われたことが何度もあります。今回だったら、厚労省とか医師会にインタビューしに行って、調査報道っぽく“なぜ救急医が報われないのか”を徹底的にやるほうが評価されるんでしょうね。だけど「その鼓動に耳をあてよ」はナレーションがなくていいように撮っているし、あえて映画っぽい作り方をしている。土方からは「映画はお金を払って観てもらうものだから、当たり前の構成じゃなくて、見せ場と緩急を作って、エンタテインメントに少しでも近付けなきゃいけない」っていう話をされて、経験がなかったので「そんなこと言われましても」という感じでしたけど、勉強になりました。
──ナレーションを排除したことで、現場の緊迫感や混乱が伝わったり、心情を想像するための必要な余白にもなっていました。
ナレーションに関しては、もとの番組では沢村一樹さんに読んでもらっていて、再編集のときに阿武野の提案でなくしました。“救急科は救急車を受けてほかの科に割り振るんだよ”っていう当たり前のことを伝えるのに、ナレーションだったら10秒ぐらいで一発で終わるんですけど、それをシーンで作らなきゃいけないのは大変でしたね。
──テレビで編集しやすいよう、簡潔にしゃべってくれる人はほとんどいないですもんね。
患者もすぐには来ないし、ドラマみたいに「腹痛でやって来た患者が実は大腸癌だった」みたいな展開もないし。でも再編集は本当に楽しかったですよ。(できなくて)後悔していたことを実現してやろうっていう気持ちもあったので。
──映画の中心人物である、蜂矢康二医師や研修医の櫻木佑さんとの関係はすぐに築けたんですか?
櫻木くんは、人懐っこくてすぐに打ち解けてくれましたね。蜂矢先生は全然そんなことなくて、ツンツンしてて“俺を取材すんなよ”感がありました。蜂矢先生の取材をし始めたのはすべての医師の中でも最後ぐらいですね。
──映画の中では軸を担っていたので意外です!
これはまたうちのドキュメンタリーのよさにつながるんですけど、「しばらくは無茶な撮影をせずに人間関係の期間にあてましょう」という方針でした。報道の警察担当のときに学んだ、情報が取れない相手からどう取るのか、みたいなことがちょっと生かせたかなと。すべての仕事が結び付いた感じがしましたね。
──これまでの経験と、局の環境もあってこそだったんですね。では、そのお二人を作品の軸にしたのはどういう経緯があったんですか?
櫻木くん(※10人以上いた研修医の中の1人)を軸にするのは早い段階から考えていました。一方、メインの医師を誰にするかは最後に決めましたね。優秀なERの医師は蜂矢先生以外にもいるんですが、やっぱり彼には人としての魅力があるし、人の背景を見ている。少し抜けているところもあるし、イライラすると顔にも態度にもすぐ出るんですけど、そのくせ休みの日もダボダボのB系の服を着て、必ず来るんですよ。
──来る?
自分の担当している患者さんの顔を見に病院に来るんです。ぐちぐち言いつつしっかり仕事しているし、櫻木くんが中華料理屋でごはんを食べながら「朝が大変だ」みたいな話をしたら、びしっと「でも朝は早めに行って患者の顔見なあかんやろ」みたいなことを言うもんですから、その信念はやっぱりかっこいいなと。そういう部分が随所に出るから、惹き付けられちゃったんですよ。ドキュメンタリーは、紛れもなく取材対象の魅力に助けられているんだって思いますね。
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東海テレビドキュメンタリー劇場 最新作『その鼓動に耳をあてよ』全国公開決定 @tokaidocmovie
㊗ついに3/16㊏~地元・名古屋での上映開始✨
ナゴヤキネマ・ノイのオープング作品に選んでいただき嬉しいです✨
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