わずか3館で8月19日に上映が始まったチリ発ストップモーションアニメ「
なぜ「オオカミの家」は大きな反響を呼んだのか? この作品でいったい何が起こっているのか? 同作が日本で初上映された第6回新千歳空港国際アニメーション映画祭にて当時フェスティバルディレクターを務めていた土居伸彰(現・ひろしまアニメーションシーズンプロデューサー)のコラムと、コシーニャへのインタビューで「オオカミの家」を紐解いていく。
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「オオカミの家」「骨」の作品背景・あらすじ
「オオカミの家」のインスピレーション源となるコロニア・ディグニダは、1961年にチリ南部で設立された。創設者であるパウル・シェーファーはヒトラーを崇拝していた小児性愛者で、西ドイツを追われてチリへ。そしてピノチェト政権と結託する。厳格に管理・支配がなされた施設内では拷問・虐待・殺人が行われた。コロニア・ディグニダで写真集や映画が作られていたことを受け、「オオカミの家」は“同コミューンの宣伝物“というコンセプトで制作されている。
作中では、チリ南部のある施設から逃走し、森の中の一軒家で2匹の子ブタと出会った娘マリアの身に起きる悪夢のような出来事が描かれる。
短編「骨」は“1901年に制作された、作者不明の世界初のストップモーションアニメ”という設定で作られた。劇中には、少女が人間の死体を使って謎の儀式を行う様子が収められている。
土居伸彰コラム:なぜ「オオカミの家」は怖いのか? 3つの掟を破った「例外的」アニメーション
不気味な造形の等身大の人形は膨れては燃えつきる。家具も大小問わず動き出しては崩壊する。壁からは巨大な顔と瞳が現れてこちらを監視する……理解の範疇を超えた出来事に人は慄くものだが、チリ出身の二名の映像アーティスト、クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャによる初の長編アニメーション作品「オオカミの家」は、物語だけでなく前代未聞の映像手法──部屋を丸ごと動かすコマ撮りアニメーション──によって、観客を恐怖させる。
現代美術の領域にいた彼らは、アニメーションの常識を気にすることなく、規格外の動かし方をしている。まず「オオカミの家」は、 「アニメーションは視線を限定する芸術である」というルールを破る。世界をゼロから作り上げるアニメーションは、作り手側の「ここを(このキャラクターを)観てほしい」という意図によって映像が作られ、それを観客が受け止めることで初めて成り立つゆえに、画面のなかで「動くもの」と「動かないもの」を分け、観客の視点を「動くもの」に限定しようとする。そして多くの場合、「動くもの」はキャラクターだ。しかし、「オオカミの家」には、その常識が通用しない。まず、キャラクターだけではなく、部屋の家具、そして壁も壁画となって動き、変化する。「動く」「動かない」の一般的なルールを無視した結果、「オオカミの家」を観た観客は、「いったいどこを眺めればよいのか」に戸惑い、情報量の過剰さに、人によっては恐怖を感じることだろう。
過剰な動きに満ちた本作の破天荒さは、チェコのシュルレアリスト、ヤン・シュヴァンクマイエルの映像(たとえば「対話の可能性」)や故
ブルース・ビックフォードによるアニメーション映像
「オオカミの家」におけるそのルール破りもまた、「コントロールを超える」という性質によって、物語のなかで必然性を持ってくる。コロニア・ディグニダから逃げ出したマリアの主観的な世界を描き出す本作は、彼女が自分自身の内面のコントロールを失っていく過程を描く作品である。だから、閾値を超えた過剰さは、マリア自身が自分自身の精神の変化についていけないと感じていることの表現となる。
本作の過剰さは、人形アニメーションを得意とするクリストバル・レオンと木炭アニメーションを得意とするホアキン・コシーニャが互いを対等に感じながら制作したことにも由来するだろう。一般的に、作家性の強い小規模制作の作品は、とあるひとりのアーティストの強力なビジョンを映像化するものだが、本作では二人のユニークなスタイルが併存するのだ。そして、この二つのビジョンの融合もまた、本作の二重性の物語に合っている。マリアと、マリア自身を裏切る内面。もしくは、マリアと、マリアを監視する──長年の生活でマリアが内面化してしまった──「オオカミ」の視点の共存として。
クリストバル・レオンとニナ・ウェラによる「DER KLEINERE RAUM」本編映像
ホアキン・コシーニャによる「Weathervane」本編映像
「オオカミの家」は「アニメーションはキャラクターの見た目を固定しようとする」という大きなルールも破る。ふつう、アニメーションの制作側は、キャラクターの見た目を設定の段階で固定する。そうしておかないと、集団制作で作られる場合、キャラクターの描写にズレが起こってしまい、場合によっては「作画崩壊」のような誹りも受けてしまう可能性も出てくる。本作のように少ないスタッフで(場合によっては監督=作家ひとりで)作られる長編もあるが、そうであってもほとんどの場合、キャラクターの見た目は一定している。
一方、「オオカミの家」において、キャラクターの見た目は固定されない。本作におけるキャラクターたちは、あるときは人形で造形され、またあるときはドローイングで描かれ、大きさも見た目も絶え間なく変化する。作り手側でも、決めていることはある。制作に当たって定められた「十戒」には「マリアは美しい」とある。本作は元々、「美女と野獣」のチリ版を作るという狙いで制作がスタートしており、ディズニー版に対するアイロニーとして、主人公は「ブロンドで青い目の美しい女性でなければならない」というルールが定められたのだ。完成した映画を観てみると、確かにマリアは「ブロンドで青い目の女性」という概念としての同一性は保っているが、その造形自体はかなり自由に変化する。コマ撮りアニメーションを観るとき、私たちは静止画の連続を観ているにすぎない。その動きは、観客の脳内で補完されるように事後的に──作品を観ているその最中に──作り上げられていく。「オオカミの家」は、その動きの原理をキャラクター自体にまで拡大しているといえる。キャラクターのルックが全編を通じて微妙に変化していくうちに、観客のなかで、キャラクターという存在が統合されていくのだ。
キャラクターが固定した見た目を持たずともしっかり実在を感じさせる大きな理由のひとつに、本作がモノローグのようなナレーションを軸にしていることがある。この点については、本作はアニメーション・ドキュメンタリーと並べて考えることができる。有名作でいえば「戦場でワルツを」や「FLEE フリー」といったこのジャンルの代表作は、とある社会的状況の被害者となってしまった実在の人々について、当人たちのインタビュー音声を元にアニメーションを作っている。この種のアニメーションは、「見せる」だけではなく「聴かせる」ことを重視することで、歴史的な出来事に翻弄される名もなき被害者たちの存在を、観客の心の奥底に植え付けていく。全編にわたりマリアの内言をモノローグのように響かせる本作もまた、コロニア・ディグニダの被害者の精神と観客をシンクロさせるだろう。
一方、「オオカミの家」には、気をつけるべきところがある。本作は、コロニア・ディグニダの主導者であるパウル・シェーファーの皮を被った「ロールプレイ」として作られている。つまり、被害者のことを描きつつも、その理解者としてではなく、むしろ加害者としての視点を想像するようにして描いているのである。被害者の姿もまた、加害者のフィルターを通して見出されてしまうのだ。
さらに指摘すべきは、本作における「コロニア・ディグニダが作った映画」という設定がフィクションであることが作中で明示されないということだ。その構造は、併映の短編「骨」でも変わらない。冒頭では、本作が1901年に制作されたアニメーションを発掘したものであると宣言されるが、これは完全なるフィクションだ。本作はおそらく、実際のアニメーション史において、南米で世界最初期の長編アニメーション(「使徒」)が作られていることや、初期アニメーションの巨匠ラディスラフ・スタレヴィッチの作品があまりにリアルな人形の造形であるがゆえ「昆虫の死体を動かして撮影されている」と思われてしまったことなどをふまえている。
彼らの作品は、「枠の外側を提示しない」という点でも、掟破りなのだ。「骨」の構造も含め、アニメーションだから心を開いて素直に楽しもう、というピュアな心持ちで映像に身を委ね、思考能力を停止させてしまうと、痛い目にあう可能性がある。マリアが家に閉じこもることでコロニア・ディグニダに最終的には捕まってしまったように、観客である私たちには、出口が提示されず、自ら探さねばならない。レオン&コシーニャの映像は危険性が剥き出しになっている。それゆえに、彼らの作品を観ることは、食うか食われるかなのである。
土居伸彰(ドイノブアキ)
1981年生まれ、東京都出身。ユーリー・ノルシュテインを中心とした非商業・インディペンデント作家の研究を行うかたわら、ニューディアー代表として、配給・製作・映画祭運営などを通じて世界のアニメーション作品を紹介する活動にも関わる。2022年より、国際アニメーション映画祭「ひろしまアニメーションシーズン」のプロデューサーを務める。
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