ドラマ「七夕の国」を岩明均ファンの1人、「チ。―地球の運動について―」の魚豊が観る

ドラマ「七夕の国」がディズニープラスで配信開始された。原作は「寄生獣」で知られる岩明均が、1996年から1999年にかけて週刊ビッグコミックスピリッツ(小学館)で不定期連載したSFマンガ。役に立たない超能力を持つ大学生・ナン丸が、謎の球体が人やビルを丸くエグる怪事件の真相解明に巻き込まれることから物語は展開される。

コミックナタリーでは「チ。―地球の運動について―」や「ようこそ!FACTへ」の作者であり、岩明に影響を受けたと公言する魚豊にドラマ「七夕の国」を鑑賞してもらうことに。全話をほぼ1日で観終えたというほど本作にのめり込んだ魚豊は、原作ファンとしてこの映像化をどう感じたか熱く語ってくれた。

取材・文 / 大谷隆之

エピソード全体にわたって岩明均先生へのリスペクトがにじんでいた

──7月4日、いよいよディズニープラスでドラマ「七夕の国」の独占配信がスタートします。原作の大ファンである魚豊先生には今回、ひと足先に全話ご覧いただきました。まずは率直な感想から伺えますか?

いやー、楽しかったですね! さすがにイッキ見は難しいかなとも思ったんですけど、観始めたら止まらなくなって。ほぼ1日で完走しちゃいました。まず原作の勘どころがきっちり押さえられていますし、キャストのお芝居も皆さん素晴らしかった。エピソード全体にわたって岩明均先生へのリスペクトがにじんでいたのも、ファンとしてうれしかったです。でも個人的に一番よかったのは、懐かしい気持ちになれたことです。

──懐かしい気持ち、ですか。ちょっと意外です。

もちろん物語のベースにあるのは岩明先生ならではのSF的奇想であり、謎解きの面白さ。そこに地方の土俗的な因習だったり、歴史学や民俗学的な知見だったりが重なり合って。後半には一気にアクション、スペクタクルの要素も入ってくる。こういう多層的なストーリーを破綻なく織り上げていく岩明先生の構想力は本当にすさまじくて。今回のドラマ版でもそこは思いっきり堪能できました。ただ同時に「七夕の国」って、大学4年生の話でもあるんですよね。卒業を間近に控えた主人公のナン丸くんが、いろんなフェイズで未知の世界に直面するという。

細田佳央太演じるナン丸こと南丸洋二。

細田佳央太演じるナン丸こと南丸洋二。

──確かに。そういう読み方もできますよね。

成長物語って言葉を使うと、ちょっと陳腐になっちゃいますけど。だけど、主人公がいわゆるモラトリアムの宙ぶらりん状態にいること。しかも根っから呑気な性格で、就活に励む同級生と比べて将来に何ひとつ展望を持てていないこと。2つのキャラクター設定が、実はストーリー内で大きな役割を果たしている。この機会に原作のマンガを読み返してみて、改めて気づかされました。で、今回のドラマではそういった大学4年生特有の雰囲気が、より前面に出ている気がしたんですね。

──なるほど。

例えばキャンパスの描写とか、部室にたむろしてる学生の空気感とか、なんとも“昔っぽい”んですが、そこがノレる。「こんな部屋に住んでいる友達がいたら、絶対に入り浸るよな」って思うくらい、居心地がよさそうでした。だから僕も自分の学生時代を思い出して、甘酸っぱくてセンチメンタルな気分になれたんだと思う。

ナン丸が部長を務める新技能開拓研究会の部室。

ナン丸が部長を務める新技能開拓研究会の部室。

──まさに実写化の醍醐味ですね。マンガの白地の部分を、具体的な美術や小道具で埋めていく。

ロケーション撮影もいちいちよかったですし。あと、大学生活との距離感も絶妙なんでしょうね。岩明先生が「七夕の国」を連載しておられたのって、30代の半ばじゃないですか。だから不思議と生々しさが希薄っていうか。キャンパスを離れて10年以上経った人が、いろんな社会経験も踏まえたうえでかつてのモラトリアム時代に価値を見出している気配がある。要は主人公に向けられた眼差しが、根本のところで優しいんですよ。今回のドラマの作りは、そこもすごく意識されたんじゃないかと思う。少なくとも僕にとって、本作の“読後感”はとっても爽やかでした。

いろんなレイヤーの謎解きが重なり合い、ぐんぐんストーリーに引き込まれていく

──原作が週刊ビッグコミックスピリッツ(小学館)に連載されていたのは1996年から1999年。ちょうど魚豊先生が生まれた前後です。実際に読まれたのはいつ頃でしたか?

19歳ですかね。当時、ある新人漫画賞に入選しまして。いただいた賞金で、読みたかったマンガをまとめ買いしたんです。その中に「七夕の国」も入っていた。高校時代に読んだ「寄生獣」は文字通り人類のあり方を根本から問い直す大傑作でしたが、それとはまた違った、言わば土俗的な物語世界に引き込まれました。いったいどこからこんな変な話を思いつくんだろうと(笑)。岩明先生のマンガ的想像力に、ただただ憧憬した記憶があります。

──具体的にはどういった部分に惹かれたんですか?

いろんな解釈を許す強度を持った作品だと思うのですが、僕自身は「土地と記憶の物語」という側面にすごく反応していた気がします。ここで言う記憶は、トラウマという言葉にも置き換え可能かもしれません。本作の重要な舞台は“丸神の里”。東北の山間部にある辺鄙な場所です。この土地に生まれた人間には古来、ほかとは違う奇妙な力が備わっている。その事実をひた隠し、外部からの介入をひたすら避けながら何百年も暮らしています。ところが、脳天気な大学生活を送っている主人公のナン丸が、実はこの超能力の継承者だった。彼はとある事情からルーツの地である丸神の里を訪れる。そしてそれをきっかけに、自らに与えられた力の根源に向き合うことになる、と。これが「七夕の国」の基本構造ですよね。

丸神の里に降り立ったナン丸ら一行。

丸神の里に降り立ったナン丸ら一行。

ナン丸が丸神の里に祖先を持つ人物だとわかり、手のひらを返したように彼をもてなす村の人たち。

ナン丸が丸神の里に祖先を持つ人物だとわかり、手のひらを返したように彼をもてなす村の人たち。

──はい。少しだけ補足しますと、ナン丸は当初、念力で物質に小さな穴を開けることしかできません。大学では「新技能開拓研究会」というサークルの部長を務めていますが、実生活ではなんの役にも立たない力なので、特に尊敬もされていない。そのささやかな能力が、丸神へのルーツ探訪の旅を通じて一気に顕現化していく。そこにいくつもの怪死事件が絡んで、物語は大きく動いていきます。

あらすじを話しているだけでも、ワクワクしますよね(笑)。いろんなレイヤーの謎解きが重なり合っていて、ぐんぐんストーリーに引き込まれていく。娯楽マンガとしても楽しくて、この面白さは今回のドラマ版でもしっかり再現されていました。ただ岩明先生の作品がすごいのは、そういったエンタメ的な構造と、より深淵で哲学的と言っていい問題意識が、分かち難く溶け合っている。それも「作品の1要素として社会性を盛り込みました」とか、そういう表層的な次元じゃなくて。物語性と知的探究心みたいなものが、根っこのところで固く結びついてる感じがするんです。

──本作においてはそのポイントが「土地と記憶の物語」であると。

うん、僕はそう受け取りました。古代ローマで使われていた“ゲニウス・ロキ”っていう言葉があるんですね。もともとは神話に登場する土地の守護精霊のことで。転じて今では、ある場所に固有の雰囲気とか、地形が醸し出すオーラを指すことが多い。例えば近代建築理論ではいかにゲニウス・ロキに寄り添う設計をするかも、重要な課題になっています。その意味では過去も現在も、人間存在の根源に関わるテーマだと思うんですね。ただ歴史を振り返ると明らかなように、守護というのは容易に束縛にも転じうるでしょう。

──確かに往々にして、人は生まれた土地への執着に囚われてしまいます。

「七夕の国」に描かれる丸神の里の人々はまさにそうですね。他者との共存を拒み、介入を恐れて過剰防衛に走ってしまう。それって有史以来ずっと繰り返されてきた、極めて今日的な問題だと思うんですよ。しかも恐ろしいのは、そのトラウマ的な執着の源泉は一体なんなのかは、結局のところ誰も知らない。もしかすると岩明先生は「七夕の国」で、その原初のあり方を描こうとされたんじゃないかと。もちろんこれは、あくまで僕の仮説なんですけど(笑)。19歳の頃から、漠然とそんな印象は持っていた気がします。本作に描かれる特殊能力って2種類ありますよね。

──はい。1つは「手がとどく」能力。これは丸神の里でもごく少数者で、空中に奇妙な球体を作りだして、物体をまんまるくエグりとることができます。主人公のナン丸は、祖父からこの力を受け継いでいた。ただし、エグッた物質がどこに消え去るかは誰も知りません。もう1つは「窓をひらく」能力。こちらは作中、住民の多くが見る悪夢のようなものと説明されています。

僕なりの表現で言うと、前者は植え付けられたトラウマの根源に触れて、部分的に操る力。後者はその存在を感知する力ということになるかもしれません。顕れ方は違っていても、私たちが生きている世界の「外部」に近接しているという点は共通しています。そして物語の後半、この力との向き合い方をめぐって、登場人物の間で決定的な対立が起きていく。ここから先の展開はぜひ、ドラマで確かめていただきたいんですけど(笑)。いずれにしても岩明先生は、「手がとどく者」と「窓をひらいた者」というユニークな設定を通じて、言わばゲニウス・ロキの誕生を描こうとされたんじゃないかと。ドラマ版を拝見して、改めてそう感じました。

球体を操るナン丸。

球体を操るナン丸。

講演会中の国会議員はこの後、謎の球体にエグられる。

講演会中の国会議員はこの後、謎の球体にエグられる。

──土地固有のオーラや特殊な地形などは、映像化されるとより説得力が増しますね。

そうなんですよ! プリンのような形をした“丸神山”と稜線がギザギザの“七ツ峰”の対比なんて、好例ですよね。まさにゲニウス・ロキ的というか、東西に位置する2つの山の形が、里の秘密に深く関わっている。原作もすごいけれど、その謎解きの面白さはドラマ版ではよりダイナミックに感じられました。あと、なんと言っても素晴らしかったのは、「手がとどく」力をしっかり映像化できているところ。世界がまんまるくエグりとられちゃう視覚的な怖さって、実は「七夕の国」の本質だと思うんですね。

──本当にそうですね。連載1話目から、圧倒的インパクトがあった。

原作の「七夕の国」第1話より。

原作の「七夕の国」第1話より。

あのコマ、僕も強烈に覚えています。完璧な球体って、実は現実の世界には存在しないじゃないですか。最新の工業テクノロジーを駆使しても、せいぜい近似値しか作り出せない。ところが劇中では、それこそゲニウス・ロキに与えられた力によって、真球がすっぱり世界から切り取られてしまう。それを言葉じゃなくコマ一発で伝えるのって、まさにマンガ的イマジネーションの精髄って言いますか。もしかしたら岩明先生はその視覚的イメージを最初に思いつかれて、そこから物語を構想されたんじゃないかと勘繰るぐらいすごいインパクトがあったんですよ。

──連載時の1990年代後半は、VFX技術も今ほど発達していなかったので。余計そう感じられました。

ですよね。真球型にエグられる描写が心底恐ろしいのは、それが実は人知の及ばない“外部”のメタファーになっているからだと思うんです。そこが映像化できないと、ほかをどんなにがんばっても、仏作って魂入れずになってしまう。その点でもドラマ版「七夕の国」は文句なしでした。VFXだけじゃなく、総合的な見せ方もすばらしかった。マンガ表現にはない映像的な話法で、原作の怖さにうまく迫っていて。

──具体的にはどういう演出部分ですか?

マンガって、文字どおりコマを追いながら読み進んでいくと思うんですが、ある瞬間とある瞬間を切り取ることで成立していて。2つのコマの間に存在するアクションそのものは、厳密に言うと描けない。逆に言うといかにその制約を逆手にとって、新鮮な語り口を考案できるかが勝負なわけです。岩明先生も、その見せ方がとてつもなくうまい方なんですね。マンガの「七夕の国」で、「手がとどく」能力を描いたパートを読むとよくわかります。力の発現とその結果が、映画で言うところのジャンプカットみたいになっていて。コマとコマの飛躍が、読者の想像力を刺激するんですね。でも映像作品でそれを繰り返すと、かえって単調になってしまう。なのでドラマ版では、マンガにはない要素でそれを補っていました。

──なるほど。光と音ですね。

はい。「手がとどく者」が作った球体に人やモノが触れると、ストロボみたいな発光現象が起きて、なんとも言えない音がする。これがちょっと間の抜けた乾いた音なんですが、その“軽さ”が独特の味になってる。それと、ゆっくりと球が近づいていく見せ方が、なんだか不気味で怖いんですよね(笑)。原作のジャンプカットとは違うけれど、受け手が感じる不穏さは近い気がしました。