監督に必要なのは“粘りどころを間違えない”こと
──今日の取材に当たって「3DCGだからこそ表現できていると感じる『死神坊ちゃん』の魅力は?」という質問を用意してきたんですけど、ここまでのお話を伺っていると、そういうことじゃないんじゃないかという気がしてきました。
鈴木 そうですね(笑)。確かに、3DCGはあくまで手段のひとつでしかないですから。原作や絵コンテに感化されて「これをいい画にしたい」という思いで実際にカットを作ってくれるスタッフがいて、それが1つひとつ積み重なっていいものになっていく、という感覚ですね。おっしゃるように、「CGだから」ということではないと思います。
──「この原作だから楽しく作業できている」という部分もありますか?
鈴木 死の呪いなど深刻な要素もありつつ、コミカルに動かすことができるカットもあるので、シリアスとギャグテイストの両方を楽しめている部分はあると思います。作業者によって、しっとりした芝居が得意な人もいれば楽しい動きが得意な人もいたりと、それぞれに得手不得手があるので、スタッフごとに適したカットを配分しやすいというのはありますね。
──なるほど。CGとはいえ、結局は“人”なんですね。
鈴木 そうなってきちゃいますね。
──CG制作を進める中で、山川監督とだからこそやれていると感じる部分はありますか?
鈴木 監督の懐の広さには、だいぶ救われていますね。CGってなんでもできるイメージがあるかもしれませんけど、実際のところはできないことのほうがはるかに多かったりするんですよ。監督はそこに理解を示してくれるので。
──それは技術的な問題ということですか?
鈴木 それもありますし、スタッフの力量やスケジュールの都合など、いろいろ複合的な意味でですね。監督が「やりたい」と言っている表現が実現できれば確かに“よくなる”んだよなと思う半面、それをやるのは物理的に難しいとなったときに、監督は「しょうがないから別の案で」とすんなり受け入れてくれるんです。「ハイスコアガール」のときから一貫してそうなんですけど、技術者の判断を尊重してくれるので、こちらとしてはすごくやりやすいです。
山川 僕は工業高校の機械科出身なんで、「無理なところに無理なパーツをはめたって破綻するだけだから、そこにこだわって無駄な時間を費やすよりは早いうちに別口の解決策を探しましょう」という考え方が染みついているんですよ。“粘りどころを間違えない”というのは、監督なりプロデューサーなり上に立つ者にとって一番必要な資質なんじゃないかな。
──それをやっていかないと、スタッフの余裕がなくなってしまうと。
山川 そうそう。無駄にスケジュールを食いつぶさないというのは大事だと思いますね。
──鈴木さんをスペシャリストとして信頼しているからできる判断でもありますよね?
山川 そうですね。彼は代替案をちゃんと出してくれるんで。「できない」とだけ言って、別の方法を聞いても黙り込んじゃう人が世の中にはたくさんいるじゃないですか。それは最悪だと思うんですけど、鈴木さんはその場で「代わりにこういうやり方なら可能です」を必ず提示してくれるんで、「じゃあ乗りましょう」となるわけです。
大畑清隆によるOP映像は「最高」、でも……
──今後の放送で視聴者がより作品を楽しむために、「ここに注目しておくといいよ」というポイントがあったら教えてください。
鈴木 「死神坊ちゃん」はラブストーリーであり人間ドラマなので、「人の心の動きをきちんと表現したい」という思いで精いっぱいCG制作にあたっています。それがうまく表現できているかどうか、実際に作品を観て見定めていただきたいですね。見どころというよりは、こちらが試されている感覚というか(笑)。
──ずいぶん謙虚ですね(笑)。
鈴木 巷では3DCGに対して「人形みたい」とか「違和感がすごい」とも言われていますし、どうしても受け入れられない人も中にはいらっしゃると思うんです。でも、「CGだから」と敬遠せずに最後まで観てもらって、何かを感じていただけたらうれしいなと。
山川 「人形」とか「違和感が」みたいなことを、今でもまだ言われてるのかい?
鈴木 まだまだありますね。
山川 そういう声を聞く機会がないんで、僕はあまりわからないですけどね。画作り以外のところで言うと、「死神坊ちゃん」は音楽がいいんですよ。音楽にはけっこう力を入れて前面に立てている部分もあるので、それも感じながら観てもらいたいですね。
──確かに、坊ちゃんがピアノを弾くシーンの曲などはすごくいいなと思いました。
山川 奥田弦さんっていう、19歳のジャズピアニストの方が作曲してくださったんです。そういうあたりも、楽しんでもらえるポイントだと思いますよ。
──音楽面では、花江夏樹さんと真野あゆみさんの歌うオープニング/エンディングテーマもいいですよね。
山川 もちろん曲もいいですし、オープニングは僕の尊敬する大畑(清隆)さんが絵コンテと演出を担当してくださっていて、映像としても素晴らしいものになっています。さすがだなと。監督クレジットをやたら大きく出すあの嫌がらせさえなければ最高なのに……。
鈴木 あははは(笑)。
──すごく自己主張の激しい監督みたいに見えちゃいますよね(笑)。
山川 あの人はどの作品でもあれをやるんですけど、どの監督もたぶんそんなオーダーはしていない。あれは「俺に頼むとこうなるぜ」っていう、大畑さんの嫌がらせなんです……という冗談はともかく(笑)、オープニング映像はポップな画に作っていただいて、最高にいい感じになってます。
新しい表現は今後も出てくる
──アニメ業界において、今後3DCGは主流になっていくと思いますか?
鈴木 どうなんでしょうね。完全に置き換わることはないんじゃないかなという気はしています。作画には作画のよさがあり、CGにはCGのよさがあるので、それぞれが進歩していく形がまだ続くんじゃないですかね。
──先ほどのお話にあったような、双方のいいとこ取りがもっとレベルアップしていくのが望ましい?
鈴木 これは難しいところなんですけど、あくまで作業面の合理性を考えるなら、本来はCGと作画が絡まないほうが望ましいんですよ。CGと作画を混ぜるとどうしてもワークフローが複雑になりがちで、その分管理も大変になってくるので。CGを使う前提で作るのであれば、できることならCGのみで制作したほうが作業工程はシンプルになって管理はしやすくなると思います。
──ということは、究極的にはCGオンリーで作画以上の表現ができるようになるのが理想ということでしょうか。
鈴木 最終的にはそうなんでしょうけども……今はモーションキャプチャとかを手軽に撮れるようにもなってきているので、今後は生っぽい芝居付けをしたCGアニメーションも増えてくるんじゃないかと思っているんですよ。そうなったときに、もしかしたら長い歴史を持つセルアニメ的な画作りのノウハウが逆にCGにとって足かせになってくる可能性もあるんじゃないかと。いわゆる“不気味の谷現象”みたいな、動きのリアルさに対して画がアニメ的すぎてバランスが取れなくなるようなことが起こりうる気もするんですよね……これはあくまで僕個人の考えですけども。
山川 不気味の谷の話もそうだけど、重要なのは情報量の取捨選択だろうね。あんまりすごい画を作りすぎても受け手の脳が認識しきれなかったりするけど、そのレベルで盛り込みすぎることが技術的にはできるようになってきてるんで。そこから何をどう引き算していくのかだと思いますよ。アニメの作画表現でも2000年前後あたりをピークに情報量が飽和して、だんだん線が少なくなっていった歴史があるし、最適な情報量の上限というものはあるはずなんで。
──お話を伺っていると、「3DCGがアニメ表現の主流になるかどうか」なんていうのは些末な問題に過ぎないようにも思えてきますね。
山川 新しい表現というものは今後もどんどん出てくると思いますから。僕には思い付かないですけどね。僕らにできるのはお話のテンポ感なり流れなりをしっかり押さえることで、そこに新しい人が画を乗っけてくれるといいのかな。年寄りの僕はもう新しく出てくるものを観て楽しむしかないなと思ってますけど、少なくともそれを否定しない人ではありたいですね。
──結局、アニメ表現の“絶対的な正解”なんてものはいつまで経っても固定化されないのかもしれないですね。その都度ベストな形を模索し続けていくしかないというような。
山川 そうですね。ラスコーの壁画からエジプトの壁画に至るまでの流れを見ても、人間にとっての“ものを描く”という概念自体にものすごいパラダイムシフトがあったように思えますし。そのスピードがどんどん加速していっている。かつては数千年かけて進化していたものが今は数年で行われているようなイメージだから、取り残されないようにしないとなって(笑)。
──まあ、監督のお仕事としては「お話をどう見せて、いかに人の心に訴えるか」というところですよね。そういう意味では、あまり時代には左右されない部分なのかなと思いますけども。
山川 そうだといいんですけどね。