2018年は新井英樹にとって記念碑的な年になるだろう。「宮本から君へ」がテレビドラマとして4月から放送されたのに続き、この秋「愛しのアイリーン」が実写映画となって公開される。熱狂的なファンを抱える新井だが、デビューから約30年を数える画業の中で、著作の映像化はこれらが初めてのことだ。彼への注目度が高まるなか、コミックナタリーでは改めてその存在を本人の言葉から解き明かすべく、仕事場でロングインタビューを実施した。自らを「怒りの人」と形容する新井がこれまでの著作を順に振り返りつつ、下の世代に“つなぐ”という思いや今の時代にマンガをどう描いていくかの葛藤など、自身の現在地をじっくりと語る。
取材・文 / はるのおと 撮影 / 須田卓馬
「おまんご」が流行り言葉になってほしい
──まずは映画公開を目前に控えた、「愛しのアイリーン」という作品が生まれた経緯を教えてください。
最初は「女同士の対決を描きたい」という話を担当編集としていたの。それで、彼(担当編集)が在日韓国人と結婚するけど揉めたという話を聞き、国際結婚はどうか、フィリピン花嫁はどうか、と提案されて「面白そうだな」と。あと「愛しのアイリーン」の前にやっていた「宮本から君へ」は、自分が1年ちょっとだけサラリーマンをやっていたから描いた作品で。その次は自分が知らないことをやろうと思って、年寄りや田舎、全然興味がないパチンコなんかを詰め込んでできたのが「愛しのアイリーン」です。
──トレンディドラマ最盛期から数年経ったとはいえ、1995年、しかもその影響が強かった当時のビッグコミックスピリッツ(小学館)で、真逆をいくような作品は風当たりが強かったのでは?
担当編集も変わり者だったから、42歳の素人童貞が花嫁を買ってくる話なんていいねって2人で盛り上がって。でも編集部の上の人たちからは、「スピリッツでなんでそんな主人公なの?」とチクリと言われていました。それで「こんなに嫌がられているならますますいいな」「ほかの作品が目当てのスピリッツ読者を嫌な気持ちにさせられるな」と確信が持てました。
──そんな扱いだった作品が、20年以上の時を経て映画化されます。新井先生は映画「愛しのアイリーン」の「完成披露“宴”試写会」で「すでに5回くらい観てるけど、毎回ボロ泣き」とおっしゃっていました(参照:映画「愛しのアイリーン」新井英樹は「すでに5、6回観てるけど、毎回ボロ泣き」)。具体的にどういった要素、シーンが泣けるのでしょうか?
一番は中盤で岩男とアイリーンが初めてキスするシーン。もちろんあそこでキスするための手順はきちんと踏んでいるんだけど、安田(顕)さんとナッツ(・シトイ)の演技と映像の空気感のおかげで、映画なんだけどすごく自然に見えたんです。あの一瞬、岩男はアイリーンがすごくきれいに見えて、アイリーンは「キスしてもいい」と思えた。それがすごくリアリティを持って迫ってきて、「生きていると、たまにはこんないい瞬間があるよな」ということを俺が信じられたことが涙腺にくるんですよ。「こんな一瞬があるから生きていられるよね」って。
──特に泣かせようというシーンではないですよね。
うん。吉田(恵輔)監督に話を聞いても、あそこは元々いかにナッツを綺麗に撮るかを考えて、彼女の後ろにネオンを煌めかせて撮影していたそうなの。でも安田さんの表情があまりによかったから、当初の予定より安田さんの顔を大きく使っちゃったんだって。吉田監督もその現場で泣きそうになったって言っていました。
──そのほかに印象的なシーンは?
ベタだけどラストシーンかな。原作を描いているときは、自分でも「ベタだなあ」なんて思いながら、でもおよそ恋愛ものから程遠いことばかりやってきた作品だから、最後くらいベタでも“あり”だろうと考えて、泣きそうになりながら描いていたの。泣きながら描くなんて、これまでに何度もないんだけど。そんなベタが実写になるとすごく迫ってきて、「声や音の力ってでかいな」と思わされた。あと「おまんご」って言葉、いいよね。
──劇中でも安田さんが何度も繰り返しますし、吉田監督も映画化の際にコメントに使われていますね(参照:「愛しのアイリーン」安田顕主演で実写映画化、新井英樹は「大爆笑!!」)。
本当に、「おまんご」が流行り言葉になってほしいな。“ご”が付くことで使用OKになるなら、「壁ドン」よりこっちをみんなに使ってほしい。それくらい地に足が着いた言葉でしょう。“男女平等”目指すなら日常語にしてほしい。
現場はディズニーランドみたいだった
──メインキャストの印象を教えてください。まず42歳、素人童貞の岩男を演じる安田さんはいかがでしょう?
最初に「愛しのアイリーン」映像化って聞いたとき、「岩男はプロレスラーか大男しか無理だろう」と思っていたけど、安田さんが主演の「俳優 亀岡拓次」を観たら、「体格は全然違うけど彼なら岩男をできる」と思えちゃった。それで撮影現場で彼が休憩中にタバコを吸っていたときに挨拶したら「すみません、こんなに小さくて」とおっしゃっていたのを覚えています。でも撮影に入ると話しかけられないくらい役に入り込んでいて、この作品に真剣なんだと伝わってきました。
──天真爛漫なフィリピン花嫁・アイリーンを演じるナッツさんや、岩男への強すぎる愛から過激な行動を繰り返すツル役の木野(花)さんは?
ナッツはもうアイリーンそのまま。写真だけでもそう思っていたけど、現場でカメラが回っていないところもあまりにアイリーンらしくてびっくりした。木野さんは、夏のロケで挨拶したときはつれなくて、冬のロケでもすごい圧を出していて話しかけられなかった。だから「(こんな役を演じてもらって)悪いことさせてるかな」なんて考えていたの。でも、その後に木野さんの「愛しのアイリーン」についてのコメントを見たら、すごく原作のことを考えてやってくれているのがわかってうれしかったです。
──皆さん、概ねイメージ通りだったと。新井先生は吉岡愛子(吉はつちよしが正式表記)らパチンコ屋のキャラクター4人を、2003年に復刻された大都社版「愛しのアイリーン」のあとがきで「黄金のカルテット」と書いているほどお気に入りのようです。そういった脇役を演じられた方の印象はいかがですか?
よかったねえ。最初に現場に行ったときはアイリーンがパチンコ屋でパチンコ玉を拾うシーンを撮っていたんだけど、岩男がいて、アイリーン、ツル、吉岡愛子、真嶋琴美、斉藤さんと揃っていて、俺にとってはディズニーランド! もう夢の国みたいだった(笑)。
──そのあとがきでは、昔から新井先生がお好きだった裕木奈江さんに愛子を演じてほしいと書かれていましたが……。
20年前、いや10年前ならギリギリ……(笑)。映画の吉岡愛子は、トイレで襲ってきた岩男に「おいで」って言うシーンがよかったね。あの「おいで」、俺の中では肝が据わった感じだったんだけど、映画では少し高くて震えが入っていて「これはいいわ」って。吉田監督にそれを伝えたら「だよね!」とわかってくれました。
──あの状況で岩男を受け入れる、愛子はすごい女ですよね。
自分の幸不幸すら何で推し量っているかわからない感じがすごい。お兄ちゃんに叩かれて笑うシーンとか、俺は「こいつ、この状況で笑うんだ」って爆笑しながら描いていたんですよ。あのシーンと「本気だと困るんだわ」はおかしくて仕方ないですね。
宮本の父役の演技に、亡くなった父のニュアンスを入れた
──「愛しのアイリーン」、そして4月から放送されたテレビドラマ「宮本から君へ」と、新井作品初となる映像化が続きましたが、どのように関わられたのでしょうか?
基本的には好きにやってもらって構わない、というスタンスです。「脚本できました、意見あったら言ってください」って言われるんだけど、自分としては感情の動きさえつながっていれば、原作を壊してくれたほうがいいくらい。やっぱり映像とマンガは媒体として違うから、できれば映像の共犯者になりたくない……なんて言っているけど、作品に出演してるんだから説得力ないよね(笑)。
──新井先生は「愛しのアイリーン」にも「宮本から君へ」にも出演されています。演じてみての感想は?
総じて映画監督は人が悪いですね。「愛しのアイリーン」の場合は、現場で振り返ったらカメラが用意されていてスタッフも準備万端、安田さんも待機している。そんな状況で「エキストラで出てください」なんて言われたら「はい」って言わざるを得ない(笑)。「宮本から君へ」は映像化がどうなるかわからないとき、真利子哲也監督に「俺がやれることがあったらやるよ」と言っていた手前、断れず。主演の池松壮亮くんがすごく作品に入れ込んでくれていたから、「ここはプロの現場だから素人の演技なんて駄目だ」とか言ってくれるかなと思っていたのに、全然そんなことなかったし。
──「愛しのアイリーン」ではパチンコ屋の客として少し映るだけですが、「宮本から君へ」は宮本の父親役としてたくさんセリフがありましたよね(参照:新井英樹がドラマ「宮本から君へ」に宮本の父親役で出演「全力はつくしました」)。かなり自然な演技に見えました。
あれは真利子監督から「ゴールデン街で飲んでいる新井さんをやってください」と言われたので、いつものように軽い感じで自分を演じただけです。あと亡くなった父親への供養じゃないけど、演技のときに少しそのニュアンスを入れたの。犬と遊んでいるときってこんなふうにしていたよな、とか。そうしたらさすが身内で、妹が俺の演技を見て「パパがいた」と号泣していました。
──演技の裏ではそんな工夫があったんですね。ただ実写版「宮本から君へ」にもし続編があったら、父親は再登場する必要がありますが……。
もし次があったらすごく緊張すると思う。前は自分を演じるというトリッキーな方法で乗り切ったけど、次は通用しない。また役者として出演OKしておいて「素人ですから」と逃げるのは現場に悪いですから。
──余談ですが、新井先生の作品を読んでいると映像的な構図を感じることがあります。自分で映像を撮ってみたいという思いはありますか?
現場を2つ見て「これは無理だわ」と思いましたね(笑)。人とかお金とか、いろいろなことを管理するのは特殊な能力がないと無理だとわかりました。
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「共感を得るなんて甘っちょろい」なるほどな、と
- 「愛しのアイリーン」
- 2018年9月14日(金)公開
- ストーリー
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年老いた母と認知症の父と地方の山村で暮らす、42歳まで恋愛を知らずに生きてきた男・宍戸岩男は、コツコツ貯めた300万円を手にフィリピンへ花嫁探しに旅立つ。現地で半ばヤケ気味に決めた相手は、貧しい漁村生まれの少女・アイリーン。岩男は彼女を連れて久方ぶりに帰省するが、岩男の母・ツルは、息子が見ず知らずのフィリピーナと結婚したという事実に激昂する。
- スタッフ / キャスト
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監督・脚本:吉田恵輔
原作:新井英樹「愛しのアイリーン」(太田出版刊)
主題歌:奇妙礼太郎「水面の輪舞曲」(ワーナーミュージック・ジャパン / HIP LAND MUSIC CORPORATION)
出演:安田顕、ナッツ・シトイ、木野花、伊勢谷友介、河井青葉、ディオンヌ・モンサント、福士誠治、品川徹、田中要次ほか
※吉田恵輔の吉はつちよしが正式表記
※R15+指定作品
©2018「愛しのアイリーン」フィルムパートナーズ
- 新井英樹「愛しのアイリーン[新装版]上」
- 発売中 / 太田出版
- 新井英樹「愛しのアイリーン[新装版]下」
- 発売中 / 太田出版
- 新井英樹(アライヒデキ)
- 1963年9月15日、神奈川県横浜市生まれ。明治大学を卒業したのち文具メーカーに就職するが、1年で会社を辞めマンガ家を目指す。1989年、「8月の光」でアフタヌーン四季賞の四季大賞を受賞しデビュー。1993年、サラリーマン時代の経験を基に描いた「宮本から君へ」で第38回小学館漫画賞青年一般向け部門を受賞。仕事や恋に真剣になりすぎるあまり過剰になってしまう新米営業マンを描き高く評価された。以降、中年男とフィリピン人の嫁をめぐる人々のコミュニケーションギャップを描く「愛しのアイリーン」、怪物ヒグマドンとテロリスト2人組が世界を破滅へ導く「ザ・ワールド・イズ・マイン」、目の前で両親を殺され、感情のままに行動する3歳児を描く「キーチ!!」と立て続けに衝撃作を発表。2018年には「宮本から君へ」がテレビドラマ化、「愛しのアイリーン」が実写映画化と、映像化が続いた。そのほか著作に「シュガー」「RIN」「キーチVS」「SCATTER -あなたがここにいてほしい-」「空也上人がいた」「なぎさにて」「KISS 狂人、空を飛ぶ」「ひとのこ」などがある。