コミックナタリー Power Push - 創刊5周年記念 月刊ヒーローズ
"3カ月連続企画 第2回 白井勝也×樹林伸 対談
編集者から作家へ、貪欲な創作への極意を紐解く
11月1日に創刊5周年を迎えた月刊ヒーローズ(ヒーローズ)。“時代が求めるニューヒーロー”をテーマに、「ウルトラマン」の後日譚となる「ULTRAMAN」や、マンガ版「仮面ライダークウガ」、「鉄腕アトム」の誕生までを描く「アトム ザ・ビギニング」など、多くの“ヒーローマンガ”を連載している。今年6月には、週刊少年サンデーの編集部に在籍後、創刊時より10年の間、週刊ビッグコミックスピリッツ(ともに小学館)の編集長を務めた白井勝也が、新たにヒーローズの代表取締役社長に就任した。
コミックナタリーでは同誌の創刊5周年を記念し、3カ月連続での連載企画を実施。白井と彼に縁のあるゲストとの対談を掲載していく。第2回には「金田一少年の事件簿」「神の雫」シリーズなどで知られるマンガ原作者であり、マンガボックスのスーパーバイザーも務めている樹林伸が登場した。週刊少年マガジン(講談社)で「シュート!」「GTO」などの作品を担当し、編集者として活躍した後、作家としても目まぐるしく活動を続ける樹林。貪欲に創作し続ける樹林に、白井がその極意を聞き出していく。
取材・文 / 斎藤宣彦 撮影 / 佐藤友昭
編集者が積極的にアイデアを出す、二人三脚での制作スタイル
──おふたりが初めて会ったのはいつ頃でしょうか。
白井勝也 樹林さんがいよいよ週刊少年マガジン(講談社)の副編集長になるっていう頃だったかな(1990年代後半)。僕も編集者を務めてるけど、世代はだいぶ違う。樹林さんは編集者として積極的にアイデアを出してマンガ家との二人三脚をずっとやっていたけど、途中から作家になった。かなり画期的ですね。
樹林伸 副編より偉くなると、全体を管理する仕事がメインになりますよね。僕は編集長になろうという思いはなかったんです。
白井 会社の中枢に入っていくことになるものね。で、すっぱり辞めた。昔ながらの編集者は、マンガ家に何か聞かれたらアイデアをちょこっと言うぐらいで、原作者の立場になって全部を描くなんてことは普通しない。樹林さんは、「金田一少年の事件簿」の頃からそういうふうに原作に関与していくスタイルだったんですか。
樹林 「金田一少年の事件簿」もそうですが、実は新入社員の頃に新人賞の作品を担当して以降、ずっとそうなんです。新人作家と打ち合わせをして、「こんな話にしよう」と決めると、作家から150枚ぐらいの分厚いネームが上がってくるんですよ。物語を分解して、1個1個拾って集めてみると「いやあ、この話からいろんな物語ができるなあ」と思ったりしながら、要素を整理すると45枚くらいにまとめられたんです。
白井 当時から物語づくりの才能が発揮されていたんですね。
樹林 もともと物は書いていたんです。学生時代にライターをやったり、小説も書いたりしていました。そして編集者になって「(編集者としては)自分のやり方が一番いいのかな」と思った。マンガ家はたいてい、1週間じゃ絵を描くだけでいっぱいいっぱいっていう状況ですから、ストーリーに広がりを作っていくのはかなり大変なことです。なのでその部分は僕がやるから、作家はなるべく絵に専念してくれっていう、そういう形でマンガ家と編集者の二人三脚のスタイルがスタートしたんです。
白井 入社して12年で講談社を辞められたのは、結果が出せたからですか。
樹林 そのスタイルにやりがいを感じていたと同時に、早く結果を出して原作を手がけられる位置につきたいとも思っていました。しかし何よりも、その年にマガジンが週刊少年ジャンプ(集英社)の発行部数を抜いて、世界一のマンガ雑誌になったのが大きかったです。
白井 なるほど。樹林さんには実作者となる意志が最初からあったんですね。
樹林 マンガの物語を考えるのもありだし、小説でもいい。そういった仕事をやれるきっかけを摑むべきかな、と。
白井 じゃあ樹林さんは、上司にとって結構やりにくい社員だったろうね、おそらく(笑)。作家と打ち合わせているときは、編集者や作品を作っている仲間という感覚ではなくて、ご自身も作家というスタンスになったものですか?
樹林 それはないです。今でも僕は編集者だと思ってますからね。
白井 作品全体を仕切るプロデューサーというか。
樹林 そうですね。僕は編集者という仕事は、プロデューサー兼ディレクターみたいな形で進めるものだと思っていました。編集者の間にそういうスタイルを広めたかったんです。実際に広まって、僕が教えたスタッフには編集長になった方もたくさんいるので、結果としてはよかったなと思ってます。
今のマガジンにも残る、樹林伸の“発明”
白井 樹林さんが「自分はほかの編集者とマンガの作り方が違う」と特に感じられた点はどこですか?
樹林 当時のマガジンでは、編集長の五十嵐(隆夫)さんを含めて、編集者たちがすごく手を入れて作品づくりに関与していた。マンガ家と二人三脚でやっていくスタイルは普通でした。でも僕はやり方自体を人に教わることはなくて、ただマンガ家さんと仲良くするのが得意だったんです(笑)。自分で言うのも変ですけど、人懐っこいというか。ちょっと年上の蛭田達也さんや、楠みちはるさんにかわいがってもらってました。あまり用もないのにスタジオに遊びに行ったりして、描く現場を見ていたんですよ。
白井 仕事とは関係ないところでも交流を。
樹林 ええ。それと、僕は子供の頃からマンガを読んでる量が尋常じゃなかったので、「優れたマンガ」と「そうじゃないマンガ」の区別は自分の中であったんです。そういう優れたマンガのスタイルを、どうやったら実地に生かせるのかっていう試行錯誤をする機会が編集者にはあるんですよね。今でもマガジンには自分がやったことがちょっと残っていて。版面(印刷の基準となる範囲)ってありますよね。マンガ家は版面に合わせてコマを割って描き、迫力を出したいときは紙面のフチまで断ち切りで描く。雑誌では、コマと紙面のフチとの間に柱(アオリのフレーズ、あらすじや予告などの文章)が入るじゃないですか。僕は自分の作品に関係のないマンガの宣伝が入るから、柱がすごく嫌だったんですよ。
白井 柱は大事な宣伝スペースなのに!(笑)
樹林 だから自分で担当する作品は、「柱の入れようをなくしてやろう」と思っていて(笑)。それとあるとき五十嵐さんが「樹林、これどう思う?」と言って、週刊少年ジャンプ(集英社)で連載されていた北条司さんの「シティーハンター」のコマの数を数えてたんです。「1、2、3、4、5、6、7、8……」って。「それに対してマガジンは1、2、3、4、5……。この差なんだよ」って言うんです。
白井 「シティーハンター」のほうが、マガジン掲載のマンガよりコマ数が多かった。
樹林 コマ数が多くて絵の密度も高いのに、全体として読みやすい。その頃藤沢とおるさんと「湘南純愛組!」を連載している最中だったと思うんですけど、「今日からさ、ちょっと版面変えるから!」って感じで、基準の版面を紙面のフチ近くまで大きくしたんです。
白井 基準面を拡大したということは、絵やコマが大きく入りますね。
樹林 はい。1ページに1コマ、2コマ普通よりも多く入るんです。つまり、新人がベテランたちと戦うためにちょっと絵を大きく描けるように版面を拡大したんですよ。効果てきめんでしたね。1話あたり20ページとすると10コマ、うまくやると20コマぐらい多く入るんです。20コマ入るってことは全体が2、3ページ分増えてるのと同じことですよね。そうするとマンガは面白く感じますよ。
──その手法は、樹林さんの「発明」ですね。
樹林 しかもバレないんですよね、読者にも。柱などの余計なものがないからなんとなくスッキリしてるんですよ。だから読みにくくはならないんです。
白井 やっぱりコマ数って大事なんですよ。数が多くて細かいと説明過剰だし、ストーリーの運びがある程度楽になってくると大ゴマが増えたりして、作家の好不調もハッキリわかりますよね。
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- 第1回 糸井重里×白井勝也
- 第2回 樹林伸×白井勝也
- 第3回 高橋留美子×白井勝也
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樹林伸(キバヤシシン)
早稲田大学政経学部卒業後、講談社に入社しマンガ編集者として「シュート!」「GTO」等のストーリー制作に深く関わる。作家として独立後は、多くの筆名で「金田一少年の事件簿」「神の雫」「サイコメトラー」「エリアの騎士」「BLOODY MONDAY」「Get Backers―奪還屋―」などのマンガ原作、ドラマ「HERO」の企画のほか、「ビット・トレーダー」(幻冬舎)「陽の鳥」(講談社)「ドクター・ホワイト」(角川書店)などの小説も著した。また2016年10月より放送されているテレビ東京のドラマ「石川五右衛門」の原作・脚本も担当している。
白井勝也(シライカツヤ)
1942年生まれ。小学館最高顧問。1968年に小学館に入社し、少年サンデー編集部に配属され、「男組」(雁屋哲・池上遼一)、「まことちゃん」(楳図かずお)などを担当する。ビッグコミック副編集長を経て、1980年にはビッグコミックスピリッツの創刊編集長に就任。「めぞん一刻」(高橋留美子)、「美味しんぼ」(雁屋哲・花咲アキラ)などのヒット作を手がけ、創刊5年足らずで100万部雑誌に押し上げた。2016年、株式会社ヒーローズ代表取締役社長に就任。
2016年12月1日更新