伊図透といえば、戦場で生きる女性狙撃手を描いたSF巨編「銃座のウルナ」が第21回文化庁メディア芸術祭で優秀賞を受賞したことも記憶に新しい。骨太な人間ドラマで読者を引き込み続ける彼が、次なる長編の題材に選んだのはスポーツ。それも女子野球ものだった。月刊コミックビーム(KADOKAWA)にて「全速力の。」というタイトルで走り出したこの作品が、約2年の休載を挟み、「オール・ザ・マーブルズ!」と名を変えて、単行本1・2巻同時発売という形で我々の手元に届けられる。
コミックナタリーでは発売に合わせて、伊図にメールインタビューを依頼。スポーツものに取り組もうと思った動機や女子野球に興味を抱いたきっかけ、野球マンガを描くうえでこだわっていることなどを聞いた。聞き手は野球マンガ評論家のツクイヨシヒサ氏が担当している。
また2ページ目、3ページ目では「オール・ザ・マーブルズ!」の冒頭2話を掲載。インタビューと併せて、作品の世界に触れてみてほしい。
取材・文 / ツクイヨシヒサ
キャラクター紹介
-
草吹恵(くさぶきめぐみ)
“ピッチャー一筋”の背の高い女子。リトルリーグでは男子に交じってエースを務めていた。女子野球W杯のセレクションに参加し、中学生ながら最後まで残り「受かってもおかしくなかった」と称賛を受ける。女子硬式野球部のある神北高等学校に、特待生として招かれて入学。理想のフォームに強いこだわりがあり、その投球動作は見るものを魅了する。
-
結城愛(ゆうきめぐみ)
「デブの『デ』は長打力の『デ』」が決まり文句の体格のいい女子。中学野球部で男子と一緒に白球を追いかけ、レギュラーも獲得していたが、「女が野球続けたって将来なにもない」「家計的に国公立じゃないと厳しい」などと高校から先の進路に悩んでいた。記念受験のつもりで訪れた女子野球WCトライアウト会場で草吹と出会い、心を動かされ、女子野球部のある高校へ進学を決める。
伊図透インタビュー
スポーツものなら、悪役不在でも英雄譚が成立する
──本作「オール・ザ・マーブルズ!」は、女子野球を描いたスポーツものです。伊図透先生といえば、代表作「銃座のウルナ」(第21回文化庁メディア芸術祭優秀賞を受賞)のような、SFものをイメージされる読者も多いと思いますが、なぜ今回このジャンルを選ばれたのでしょうか。
スポーツものは悪役がいなくても英雄譚が成立するジャンルだと思っていましたので、もともとスポーツものを描く動機は持っていました。ウルナ(※1)が銃撃するとき、小さくない罪悪感がセットでしたが、草吹はもっと自由にボールを投げ込みます。スポーツには、命のやり取りがありませんから。ただし草吹もまた、本人の自覚とは別に、さまざまなものをその左腕に背負うことになります。
──確かに、スポーツものは敵を倒すことに対して、葛藤を持たずに済む数少ないジャンルかもしれませんね。女子野球というカテゴリについては、いつ頃から興味を持たれていたのでしょう。
2013年ぐらいです。WBSC(※2)が誕生した一因は五輪への復帰で、東京五輪決定前後に野球競技の復帰可能性が取り沙汰されていました……その中での1競技2種目という案が、興味を持つきっかけでした。
──「男子野球と女子ソフトボール」という、2つの種目を合わせて1つの競技として扱う案ですね。で、これだと女子野球選手たちが活躍する場がない、という問題が浮上する。本作は最初、「全速力の。」というタイトルで連載スタートしたものの、途中で休載。そこから2年を経て「オール・ザ・マーブルズ!」として、改めて再開されました。休載に際し、先生は「(このマンガは)東京五輪と不可分な内容でした」と語っておられました。これはどういった意味だったのでしょうか。
五輪の裏で試合をしているラストを想定していましたが、中断した段階では、コロナ禍により東京五輪がどうなるかも見えてない状況でしたので、その展開は捨てました。どう変わったか(変わるか)は今はまだちょっと。
──タイトルも「全速力の。」から「オール・ザ・マーブルズ!」に変更しました。この理由は?
「全速力の。」だと、検索にかかりづらいからです。「オール・ザ・マーブルズ!」は、ラストまで読んだときにその意味がわかるといい、と思ってつけたタイトルですので、現状ではわかりにくいかもしれませんね。英語の意味としては、隠語で“死にものぐるいの”“一発逆転”的な意味です。
──「全速力の。」で描いた冒頭部分も、「オール・ザ・マーブルズ!」単行本化にあたり、大きく変更されています。2年の休載中、それ以外に構想されたり作業されたりした部分はありますか。
作業という面では、新1話以外は特にしていませんでした。ビームさんに甘えさせていただき、ほかの仕事をしていましたので……。自分のマンガのことというよりも、コロナ禍ゆえの苦境に陥る女子野球に関わる方々を心配しておりました。
──女子野球を取り巻く環境は、現在も複雑です。女子野球リーグが全国7地域に拡大したり、全国高校女子選手権決勝が甲子園球場で行われるようになったり、いいニュースもいくつか聞こえてきますが、先生は現実の女子野球が抱える問題等をどう捉え、作品の中でいかに表現されようと考えていますか。
女子野球の問題は、おおむねマイナースポーツが抱える問題と同根です。例えば差別が云々というのは本質的な問題ではないので、より野球原理に沿った方向のマンガにしたいと思って描かせていただいてます。これは男子ソフトも同様なので、作品中でも男子ソフトに今後触れることが出てくるかもしれません。
──マイナースポーツが抱える問題というと、やはり競技人口やスポンサーなどの事情でしょうか。先生としては、もっとまっすぐに野球と向き合う人たちの姿を描きたいと?
おっしゃる通り、競技人口とスポンサー、あと観客数の問題ですね。そこに尽きると言ってもいいと思います。マイナースポーツの問題を男女の問題として捉え政治化したいのではなく、困難な環境にいる人々だからこそ、野球への愛情が描き出せるようにしたいというか。思えば水島新司さんのマンガには、野球がやりたいけどできないというシチュエーションの人々がたくさん出てきました。それが野球への渇望を生む。ああいうことです。
──女子野球に関しては、かなり取材も行われたとか。作中にも、実際に全国高校女子選手権大会で使用されるスポーツピアいちじま(現・つかさグループいちじま球場)が登場しています。
スポーツピアいちじま、行きました。公共交通機関のない道中、アスファルト上で“悶絶死するミミズ”のようになりました。ただアクセスが悪いとはいえ、素晴らしい球場で、取材中で最も心に残った球場でもありました。女子プロ野球リーグ(※3)があった頃には大宮、浦和、神宮、京都などへ行きました。
※1:「銃座のウルナ」の主人公、ウルナ・トロップ・ヨンクのこと。スナイパー。
※2:世界野球ソフトボール連盟。国際オリンピック委員会により承認を受けた統括団体。
※3:2009年に設立されたが、2021年に無期限休止を発表。
野球のポージングは、写真や映像を見て描かないようにしている
──では、ここからはより作品の中身に迫った質問をさせていただきます。まず、野球マンガは世の中に数多あります。女子野球ものも少なくありません。その中で本作は「ここが違う」と先生が自覚されている部分はどこでしょう。
ほかのマンガと比べて、ということではないのですが、この作品はことさら特別な設定などのない、極めて普通の話です。野球を好きな人々を描いた、普通のマンガになればそれでいいと思っています。
──ちなみに、好きな野球マンガや、影響を受けた野球マンガはありますか。
子供の頃に読んで面白かった野球マンガは、「男どアホウ甲子園」(水島新司)、「H2」(あだち充)、「キャプテン」(ちばあきお)です。
──本作では序盤から、主人公の投手・草吹恵ともう1人、打者として才能を発揮する結城愛という女の子にスポットが当てられています。どちらも名前の読みが「めぐみ」となっていますが、これに意味はありますか。
2人を比較していただきたいというサイン、記号、です。
──第4回女子野球WCのトライアウトのとき草吹恵が、練習を見ていて涙をこぼしたり、マウンドでも急に泣き出したりというシーンがあります。その理由について特に説明がありませんでしたが、彼女はなぜ涙を流したのでしょう。
すいません、それは今後の展開上……。
──ああ、やはり後に関係してくる描写なのですね。楽しみです。それにしても、主人公の草吹恵はかなり天才肌というか、感受性が豊かなタイプに見えます。先生ご自身は、彼女の性格や考え方、行動などについて「どんな女の子」だと考えていらっしゃいますか。
愚直な一途さを持っている人間です。その一途さゆえ、ときに常識のラインを踏み越えてしまうこともあり、周囲を騒がせますが、彼女をよく知る人々はその理由がわかっているという人物です。例えで言うとサッカーのルイス・スアレス(※4)のような。
──非常に優秀なストライカーであるにもかかわらず、2014年のワールドカップでは、相手のDFに噛みつく事件なども起こしていたスアレスですね。
あの噛みつき事件で騒然となっていた頃、スアレスはイギリスのリヴァプールから、スペインのバルセロナへ移籍するのですが、そのときに「あいつは真剣なだけで悪い奴じゃないんだ、バルセロナファンの方々、スアレスをよろしく」と言っているリヴァプールサポーターを見たんですよね。そういう人物像かな、と。
──愚直な一途さといえば、草吹恵はグラウンドという海でイルカのように馴染めれば、水と溶け合うように動けるんじゃないか、とかなり真剣に考えています。これは女性らしいしなやかなフォームの理想形を表現していると思うのですが、先生が考える「女子野球選手が、男子と同じサイズのグラウンドで活躍する条件」あるいは「男子よりも上に行ける可能性がある部分」はありますか。
自分が答えるには重すぎる質問ですが、大谷翔平(ロサンゼルス・エンゼルス)や、佐々木朗希(千葉ロッテマリーンズ)みたいな選手が出てきたんですから、なんだってあり得るはず。なんなら現実を先がけて描いたのが草吹だった、というような未来が訪れるといいかなと。
──実際に、紙面上の草吹恵はおそろしくしなやかな投球フォーム、具体的には利き腕(左腕)がものすごくしなっていたり、フォーム全体が流動的なタッチで描かれています。女子野球を描くにあたって、「既存の野球マンガとは違う表現」を意識されて描かれているところはありますか。
腕がしなるだけでしたら、おそらく部分的にはすでに描かれているマンガはあるかなという気がします。普通に考えてそうなはずです、たぶん。数々の偉大な先達が残した業績をすべて把握してるわけではありませんが、水島新司先生ご逝去の折りに「すべてはすでに表現されている」と思い知りました。
──野球マンガに関わる方たちの多くが、水島新司先生が残されたものの偉大さに改めて驚かされる、という話はよく耳にします。さすが「野球マンガの神様」と呼ばれる方です。
ただ、そういったこととは別に心がけているのは野球のポージングです。じつは実際のプレーの画像や動画を見て描くことを意識的に制限してます。ご指摘いただいた「マンガ的な誇張」が大事というのもありますが、それだけではなく、ましてやトレパク(※5)がどうこうというのでもなく、「野放図さ」や「至らなさ」というものを画面に残しておきたいためです。
──正確なだけの停止したようなポージングよりも、荒々しい躍動感を残しておきたい、というようなことでしょうか。なるほど、作中の草吹恵はいかにも、周囲の目を引く速球を投げていそうな雰囲気が漂っています。そんな先生が、ご自身で気に入ってらっしゃるシーンはありますか。
1巻134ページの6コマ目、学校の池の鳥の種類についての結城愛、相田可織、長沢飛鳥による3人の会話です。
──「アヒルだー」「カモでは」「ガチョウでしょ」と、みんなバラバラのことをいう、ほのぼのとしたシーンですよね(笑)。意外なチョイスですが、単行本を購入された方はぜひ注目してください。
※4:ウルグアイ出身のFW。2021-22シーズンでアトレティコ・マドリーを退団し、移籍する。
※5:写真やイラストなどを「トレース」して「パクる」ことの略。
プロフィール
伊図透(イズトオル)
東京都出身。2006年、第49回ちばてつや賞の一般部門にて大賞を受賞。2008年、漫画アクション(双葉社)で「ミツバチのキス」の連載をスタートさせ、本格的にデビューを果たす。2015年より月刊コミックビーム(KADOKAWA)で発表したSF巨編「銃座のウルナ」は、2018年に第21回文化庁メディア芸術祭のマンガ部門で優秀賞に輝いた。
次のページ »
「オール・ザ・マーブルズ!」第1話を読む!