アニメ制作会社の社長やスタッフに、自社の歴史やこれまで手がけてきた作品について語ってもらう連載「アニメスタジオクロニクル」。多くの制作会社がひしめく現在のアニメ業界で、各社がどんな意図のもとで誕生し、いかにして独自性を磨いてきたのか。会社を代表する人物に、自身の経験とともに社の歴史を振り返ってもらうことで、各社の個性や強み、特色などに迫る。第7回に登場してもらったのは、シャフトの代表取締役・久保田光俊氏。「さよなら絶望先生」や「〈物語〉シリーズ」、「魔法少女まどか☆マギカ」など先鋭的な作品の印象が強いシャフトだがその歴史は長く、まもなく創業50年を迎える老舗のアニメスタジオだ。2代目社長となる久保田氏の立場から、その長い歴史と現在の評価を得るまでの道のりを振り返ってもらった。
取材・
アニメが好きな人たちに協力してもらいながら
アニメファンの多くはシャフトの名前を知っているだろう。しかしその企業を象徴するコーポレートカラーを知っている人は少ないかもしれない。正解はライトグリーン。久保田氏によると、10年ほど前に公式サイトをリニューアルする際に「若々しく感じるから」と選んだ色だそうだ。
「若々しいイメージ」と言っても、シャフトは若尾博司氏(現会長)が虫プロダクションから独立し、1975年9月1日に創業した老舗スタジオだ。当初は、同時期(1972年)に同じ流れで設立された日本サンライズ(現サンライズ)から引き受けた仕事が多かったという。そんなシャフトに、のちに2代目社長となる久保田氏が入社したのは1980年代初頭のことだった。
「1980年頃、アニメスタジオに勤める人と知り合いだった従兄弟から『マンガが好きならバイトでもやってみる?』と言われ、紹介してもらったのがシャフトでした。それで彩色などの仕事を教えてもらっていて、映像を作る過程を知っていくほど自分でも作る側で深く参加したくなってしまい……、今に至っています。
当時、シャフトの仕上部には30人くらいのスタッフがいました。とにかく毎週1話3000~4000枚を完成させなければいけないですから人手が必要でした。あの頃はまだ海外のスタジオにお願いするという手段がなかったので、スタジオの沿線や近所のアニメ好きな方々の自宅での内職仕事として手伝ってもらっていましたね」
現在とはまったく違うスタジオの雰囲気を懐かしそうに回顧する久保田氏。社内には同年代の若手スタッフも多く、スタジオ全体で青雲の志を抱いていたという。
「入社した頃のシャフトは下請けが中心のスタジオで、僕と同世代の人たちがスタジオの主力として動いていました。多くのスタジオがベテランの監督やクリエイターを抱えている中で、20代前半が主力というのはかなり珍しかったのかもしれません。
もちろん『自分たちの手でアニメを作りたい』という思いはみんな持っていましたが、先代もそう簡単に自分たちでTVアニメシリーズを作れるとは思っていなかったようです。だから、シンエイ動画やサンライズ、タツノコプロなどの下請けをしながら、若手を育てる時期が続きました。その頃のシャフトにとって、TVシリーズの元請けをすることが大きな目標の1つでした」
悲願を達成した「十二戦支 爆烈エトレンジャー」、しかし迎える雌伏の時
「TVシリーズの元請けをする」「オリジナルのアニメを作る」。そんなシャフトの2つの悲願を果たした「十二戦支 爆烈エトレンジャー」の放送が始まったのは1995年のことだった。
「その数年前から、テレビ局などにアニメの企画を持ち込んでいました。企画がなかなか実現に至らなかった中で、GOを出してくれたのがNHKエンタープライズでした。当時のNHK衛星放送で、3クール39本のフォーマットでの制作が決まって。その頃、僕は仕上げではなく制作担当になっていたんですけれど、ようやく自分たちのアニメを作れることになり、社内のモチベーションはものすごく上がっていましたね」
「十二戦支 爆烈エトレンジャー」で悲願を達成したシャフトだったが、その後は順風満帆というわけにはいかなかった。1990年代後半、彼らは雌伏の時を過ごすことになる。
「『十二戦支 爆烈エトレンジャー』では、若手のスタッフたちがメインで制作に関わることができました。最近だと『RWBY 氷雪帝国』で監督をした
ただ外から見ると、シャフトはまだまだキャリア不足に映ったようで。『エトレンジャー』を作った後もいろんなところに企画を持ち込みましたが、なかなかTVシリーズを任せてもらえず、厳しい現実を思い知らされました」
その頃、久保田氏らは「新世紀エヴァンゲリオン」が社会現象となっていたガイナックスや、「少女革命ウテナ」などの個性的な作品を作り始めたJ.C.STAFFといった影響力の強い新しいアニメを作るスタジオに刺激を受けていたという。
「正直なところそういった作品を観て、みんな『一番新しいアニメを作っているところに参加してやっていけるのか』という不安がありました。でも、そういう仕事をできるようにならないと今後は生き残っていけない。スタジオも個人も進化するために、90年代後半は他社が手がけるいろんなTVシリーズのお手伝いを中心にやっていきました。その中で、AIC制作の『バトルアスリーテス大運動会』のTVシリーズ制作に参加させてもらったことが、1つの大きな挑戦であり、自信にもつながっています。
素晴らしいデザインの美少女のキャラクターや、美術設定の密度の濃い作品をどうやってTVシリーズとして制作していくか? 秋山勝仁監督をはじめ、作画監督やその他のスタッフたちの層が分厚い制作方法は今も目標としています。旬の作品には優秀な人が集まりやすくて、声を掛けると喜んで参加してくれたスタッフも多かったです。また、『REC』や『劇場版「キノの旅」病気の国-For You-』でご一緒した
「まほろまてぃっく」で迎えたターニングポイント
スタッフが最前線のアニメに携わることで実績を積んでいった90年代後半のシャフト。そして2000年、久保田氏が同社にとってのターニングポイントとして挙げる「まほろまてぃっく」が放送される。
「『サクラ大戦』で知り合うことができたTBSのプロデューサーと当時のパイオニアLDCのプロデューサーから、ガイナックス制作の『まほろまてぃっく』に共同制作として参加しないかと提案を受け、快諾しました。
当時のガイナックスの制作姿勢には驚かされました。映像表現や演出に対して強いこだわりがあり、クオリティに妥協がない。制作的にはタフな現場でしたが、楽しんで観てもらうために、エンタテインメントとしてアニメをどうやって作っていくべきかを教えてもらった『まほろまてぃっく』は、プロデューサーとして制作に関わり始めた自分にとっては最大のターニングポイントです」
ターニングポイントを経て、2000年代のシャフトは次々にTVシリーズを手がけていくことになる。2004年にはプロデューサーとして活躍していた久保田氏が代表取締役に就任。しかし当の本人にはそんな気はなかったようで……。
「元請け作品が増えて、アニメ制作に参加することが楽しくなってきた時期で、作品に対するこだわりも強くなってきたこともあり、恥ずかしながら現場スタッフと衝突してしまうこともよくありました。なので、当時はまさか代表を任されるなんて思ってもみませんでした。今にして思えば、クリエイターへのリスペクトや、スタジオとして少しでもいい仕事を残そうという考えは常に持っていたので、そういったところを感じ取って任せてもらえたのかもしれません」
新房昭之監督との出会い
geek@akibablog @akibablog
シャフト 久保田光俊(代表取締役) | アニメスタジオクロニクル No.7 - コミックナタリー
https://t.co/CX99R32ziR