マンガ家が作品を発表するのに、経験豊富なマンガ編集者の存在は重要だ。しかし誰にでも“初めて”がある。ヒット作を輩出してきた優秀な編集者も、成功だけではない経験を経ているはず。名作を生み出す売れっ子編集者が、最初にどんな連載作品を手がけたのか──いわば「担当デビュー作」について当時を振り返りながら語ってもらい、マンガ家と編集者の関係や、編集者が作品に及ぼす影響などに迫る連載シリーズ。第3回で登場してもらったのは、マンガ、アニメ制作・芸能マネジメントなどを手がける株式会社ミキサーのマンガ編集室で編集長を務める豊田夢太郎氏。
取材・
ギャグマンガ界の巨匠・谷岡ヤスジの思い出
豊田氏は1996年に新卒で実業之日本社に入社し、希望していた漫画サンデー(実業之日本社)編集部に配属された。同誌は1959年から刊行された老舗のマンガ誌で、手塚治虫、藤子不二雄(A)、つげ義春、水木しげる、畑中純など名だたる巨匠たちのほか、「静かなるドン」の新田たつおらが活躍。惜しまれながら2013年に休刊した。豊田氏は学生時代から内田春菊、近藤ようこ、杉浦日向子といった同誌で活躍していた作家たちの作品を愛読していたという。入社して最初に担当したのはギャグマンガ家の
「漫画サンデーに配属されて最初に、当時の上田康晴編集長から『担当したい作品があったら引き継ぎさせるけど、何がやりたい?』と聞かれ、『谷岡さんを担当したいです』と唯一希望して担当させていただきました。モーニング(講談社)で不定期連載されていた『のんびり物語』などをリアルタイムで読んでいたし、バター犬のインパクトなんかも含めて、すごい作家さんだなと思っていました」
バター犬とは、女性が股間に塗ったバターを舐める犬のキャラクターで、谷岡の作品に頻出する。豊田氏が編集に携わった作品集「谷岡ヤスジ傑作選 天才の証明」収録の「キャラクター図鑑」から言葉を借りれば、「ご存知、谷岡ワールドのスーパースター。今日もバターを背負い、美人の股間をペロペロするためにさまよっている。相場は2万円」。バター犬が象徴するように、谷岡の作風はナンセンスで下品、突き抜けたギャグで70年代から80年代の青年マンガ誌を大いに彩った。編集者としての谷岡との出会いは生涯忘れられないと語る。
「ベテランだった前任者と引き継ぎの挨拶に行ったとき、谷岡さんは『じゃあ来週から頼むよ、豊田くん』とにこやかな感じだったんです。だけど翌週、前任者に言われたとおり谷岡さんに電話して原稿を受け取りに行こうとしたところ、『上がってるワケねえだろ!』とめちゃめちゃ怒られまして……。青くなって当時の編集長に話し、翌日菓子折りを持って再訪したら、谷岡さんはにやにやしながら『びびっただろ?』って(笑)。『びびらせてごめんな。ただ、俺は新しく担当する人には絶対にこれをやるんだ』『最初に示しておかないと、編集者はそのうち、自分が作家をコントロールしていると思っちゃうんだよ。編集者とマンガ家って、そういうことじゃないからな』ということでした」
まさに、一癖も二癖もある昭和のマンガ家らしい“ジャブ”だ。
「谷岡さんは、ありとあらゆる雑誌で仕事されている作家さんだったので、編集が決める締め切りではない“本当の締め切り”も把握されている。漫画サンデーだったら木曜日の何時までに原稿上がればギリギリいけるとわかっているから、編集者によるコントロールが効かなかったし、されたくなかったんだと思います。『今後は水曜日の同じ時間に電話して原稿を取りに来て、上がってなければそう言うから、そんなふうに毎週来るといいよ』と。そんなちょっとしたいたずらも含めて、谷岡さんの人柄が最初からすごくインパクトある形で伝わってきて、当然びっくりはしましたが、人間として好きになってしまいましたね」
その後、別のマンガ雑誌編集部に異動になるまで2年強、担当した。当時豊田氏はまだ20代前半という若さだけに、谷岡との思い出は、ほかにも強烈に焼き付いているという。
「谷岡さん、毎日熱心に腹筋していて、もうガッチガチだったんですね(笑)。それがすごい自慢だったようで、ことあるごとに『豊田くん、俺の腹筋を触ってみろ』って言ってくるんです。その日のうちに入稿しなくても大丈夫なときは、原稿が上がったあとに奥様がうなぎやかつ丼を頼んでくれて、そのまま夜まで飲んだりしていたんですが、谷岡さんは決まって腹筋を触らせる。『すごい硬いですね』と言うと『豊田くんもやらなきゃだめだ』という流れになり、僕も腹筋をやらされていました(笑)」
「俺の目の前で原稿を読むな」
まるで親子のようなやり取りが微笑ましい。実際、谷岡の娘さんと豊田氏が同い年だったということもあり、谷岡夫妻には子供のようにかわいがられたという。そして、作風からは破天荒な作家をイメージしてしまう谷岡だが、意外にも締め切りは必ず守る作家だった。
「むしろ、最初に『スケジュールはしっかり確認してくれ』と頼まれました。というのも、僕の前の担当者がかなりスケジュール管理について大雑把な人で、谷岡さんは言われるままに締め切りを守っていたのに、その人が年末進行を忘れていたがために原稿が落ちたことがあったらしく(笑)。もう1つ言われたことがあって、谷岡さんって僕が担当していた間は薄いペラペラのコピー用紙にマンガを描いていたんです。だけど、前の担当者は原稿を受け取る際にそれを2つ折にして鞄に入れていたらしく、『それはさすがにやめてくれ』と(笑)。当然ですが画稿ケースを必ず持っていくようにしていました」
昭和の豪快な編集者エピソード……と言っていいものだろうか。そして谷岡は、もう1つ豊田にルールを伝えていた。「絶対に俺の目の前で原稿を読むな」。
「目の前で原稿を読んだ編集者は『谷岡先生、今回も素晴らしく面白かったです』と言わざるを得ないですよね。だけど『毎回面白いわけなんかないのは、俺が一番よくわかってる』『編集者の嘘を見ていても不愉快だ。だから、枚数を確認したらすぐにしまえ』と言われていたんです。毎回そのルールに従って、原稿は枚数だけ確認して読まずに持っていっていました」
編集の仕事は作家から教わった
原稿を受け取ったあとも感想を伝える機会はなく、谷岡とは「作品の話はまったくしなかった」という。そんな谷岡と築いた信頼関係は貴重な財産となった。
「当時の編集長から教わったことの1つに、『作家と友達になるな』というのがありました。当時漫画サンデーは、ベテランや中堅以上の作家さんが描いている雑誌だったこともあり、作家さんから仮に『生活に困ってるからもうちょっと連載を続けさせてくれよ、友達だろ』とか『これ載せさせてよ、俺たちの仲じゃない』と頼まれると、編集者は作品の面白さとは関係ないところで判断を迫られることになる。だから、あくまでも作家さんとは仕事として接して、友達付き合いはしないというルールがあったんです。その教えは、実は今でも守っています。
谷岡さんとは年齢差もあったのでもちろん“友達”ではなかったですけど、そうしたルールもあったなかで、違う形の信頼関係を築くことができたと思います。僕も谷岡さんに対する信頼が非常に厚かったですし、先生からもある程度信頼いただいていると思えた出来事がいくつかあったので、作家さんとはこういう形でも、仕事のパートナーになれるのだなと学びました」
その後、入社から2、3年が経ち、豊田氏は初めて企画からマンガを立ち上げることになる。それが今年逝去した
「この頃は、作家さん自身に『他社さんの作品ではどうしていますか?』と聞いて、そこから学ぶことが圧倒的に多かったですね。例えば
マンガ誌編集部では先輩から後輩に知識と実務を教え込む体制が多い中、作家に直接教わっていたというのは興味深い。
「社内にその辺のノウハウを教える文化がほとんどなかったのと、とにかく担当を引き継ぐ作家さんが全員ベテランなので、作家さんに任せておけば編集者は大丈夫、みたいなところはありました。さすがにその後、当時の先輩編集者で現COMICリュエル編集長の森川和彦氏が、若手編集者の勉強会を定期的に開いて現状を変えようとしてくれました」
その後、漫画サンデー時代に担当した中では、小田扉の「マル被警察24時」が思い出深いという。
「小田さんは、当時『こさめちゃん』(モーニング新マグナム増刊ほかに掲載)などを読んでいて、すごく好きな作家さんだったんです。今だとなかなか想像しづらいのですが、当時は作家さんの連絡先を知ることがとても大変な時代でした。その作家さんが描いている雑誌の編集部に電話して連絡先を教えてもらうか……といっても、9割教えてもらえないのですが、作家さんたちの飲み会に潜入してぬるっと知り合うか(笑)、アシスタント筋から知り合いを辿るか。小田さんは、当時知り合いの編集さんに相談したところたまたま連絡先をご存知で、しかもちょうど仕事が途切れていると教えてくれました。それですぐにお声がけできたんです。タイミングも含めて『これは運命だ!』と自分の中で盛り上がりましたね。結果的にも、小田さんのお仕事の初期にあたる1冊をまとめられたことは、すごくうれしかったです」
「黙ってるのがあなたの仕事ではない」
実業之日本社にてマンガ編集者としてキャリアを積み、2002年には小学館という新天地にてIKKIの専属契約編集者として仕事をスタート。IKKIで仕事を始めてからもしばらくは、作家と打ち合わせを重ねて作品づくりをしていくプロセスは探り探りだったという。
「作家さんと打ち合わせしていて、いいアイデアが浮かばなかったり難航しているときに、お互い黙ったまま喫茶店で2~3時間、コーヒーを何杯もおかわりしながら途方に暮れる──当時、そんなことをけっこうやってたんですよ。でも、あるとき、とある作家さんにこう言われたんです。『黙ってるのがあなたの仕事ではないでしょう』」
「尊敬する作家さんに、役にも立たないことを言って軽蔑されたくない」と、無意識のうちに寡黙になっていた豊田氏にとって、そのひとことはまさに青天の霹靂だった。
「僕はその作家さんをすごく尊敬していたので、つまらないことを言うのは恥ずかしいし、なんとかして誰も思い付かないようなアイデアを出したいという気持ちもあり、なかなか口に出すことができていなかった。だけどそうじゃなくて、とにかくなんでもいいからバーッとしゃべって、その中から作家さんがヒントを得る──そういうことをやるべきだったし、編集者が多少なりとも作家さんの役に立てるのはその方法しかないのでは?とそのときにようやく思い至って。そこから打ち合わせの仕方をガラッと変えました。
それ以降、1つ心がけているのは『どんなにくだらなくても、そのとき思い付いたことは全部口にする』ということ。たとえそれがありふれているネタでも、昨日家族と話した些細な話でも、『布団がふっとんだ』みたいなただのダジャレでも。自分の編集者としての人生の中では、かなりエポックメイキングな出来事でした」
これまでの取材で、マンガ編集者と作家との付き合い方には少なくとも2パターンあると感じていた。自分のことをなんでも作家に話し、そうすることで作家側にも心を開いてもらう、ある種親友のような付き合い方。もう1つは、仕事上の線引きを重んじ、プライベートには踏み込みすぎず、あくまでも編集者と作家として信頼関係を積み上げていく付き合い方。豊田氏はどちらだろうか。
「どちらとも言えないかもしれないです。自分のことはプライベート含めて全部話します。ただ、必要以上に作家さんのプライベートを知りたい気持ちはあんまりないんです。もちろん、作家さん自ら話していただくことについては耳を傾けますし、さらに掘り下げてお聞きすることもありますが、自分のことに関しては作家さんから聞かれようが聞かれまいが、一切隠すことなくこちらからばんばん話しますね。たぶん担当してる作家さんのほうが家族や親兄弟よりも僕のことを知ってくれていると思います(笑)。そのくらい、とにかくなんでも全部しゃべります。だからといって『じゃあ一緒に遊びに行きましょうか』みたいなことには、やっぱりならないんです(笑)」
「I【アイ】」が完結したときに編集者をやめようかと思った
そんな豊田氏が「今までの人生の中で一番印象的かつ大事な作品」と語るのは、IKKI時代に担当したいがらしみきおの「I【アイ】」だ。
「運命という言葉で片付けるのはよくないのですが、いがらしさんの『かむろば村へ』にすごく感激して、どうしても次の作品を取りたいと思い、当時IKKI編集長だった江上英樹氏と2人で会いに行ってお願いしたところ、たまたま執筆スケジュールが空いていたんです。いがらしさんは以前から『I【アイ】』の企画を温めていたそうで、『半自伝的な作品でこれまでの集大成になるが、IKKIという場で今なら描ける気がする』と言っていただけました」
「I【アイ】」は、いがらしの故郷である東北の地を舞台に、恵まれた家庭に生まれた雅彦と、超自然的な力を持つ孤児イサオが「神様のような存在を探して旅をする」という物語。言語化できないが、そこに存在するはずの“何か”を描いた、神秘的な傑作だ。また、いがらしは初期の短編ギャグマンガで谷岡ヤスジの作品に強く影響を受けており、谷岡に強いリスペクトのある作家だ。当時、豊田氏といがらしの間で谷岡の話題は共通項になっていたという。豊田氏にとっても編集者人生の集大成とも言える作品になった。
「『I【アイ】』連載中に不幸にも東日本大震災があり、内容も大幅に変わって最終的にああいう作品になりました。いがらしさんにはあらゆるタイミングで『僕の編集者としての代表作です』とお伝えしていますが、『I【アイ】』が完結したときに編集者をやめようと思ったくらいでした。これを世に出し、僕はマンガ編集者としての役割を1つ終えたのではないかと思えるくらい、本当に素晴らしい作品になったと思います」
編集長ではなく、読者を見据える
yumetaro @yumetaro
コミックナタリーでこのインタビューを受けたのは、谷岡ヤスジ氏の話をどういう形ででも世に残したかったから。この中でも奥様について触れているが、実際、谷岡氏の原稿上がるまでの数時間は、リビングで奥様とおしゃべりして過ごしていた。(続
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