35年超の歴史を持つオリジナル作品オンリーの自主制作マンガ誌展示即売会・コミティアが今、新型コロナウイルスの影響下において、存続の危機にある。5月の「COMITIA132extra」、そして9月の「COMITIA133」は中止を余儀なくされ、コミティア実行委員会は現在、コミティア継続のためのクラウドファンディングを展開中だ。コミックナタリーでは、そんなコミティアが置かれている現状と抱えている問題、そしてコミティア存続のために何ができるのかをユーザーに伝えるべく本企画を始動。第2回では、コミティアが誕生から現在の形に至るまでを追ったコラム「コミティアの歴史」をお届けする。
文
コミティアという場所
「トライガン」の
ここに出世作と一緒に名前をあげた誰もが、かつてコミティアに出展していた、もしくは今もしている、と知ったら驚くだろうか? あげたのは本当にごく一部であり、実際にプロになった人の数はこの何十倍にもなる。とはいえ、プロをたくさん輩出したから価値があるイベントだと言いたいわけではない。彼・彼女らはプロになる前から参加していた人がほとんどで、結果としてプロになったことが目立つだけだ。それよりも、なぜ彼・彼女らがコミティアに出てみようと思ったのかのほうが重要である。
一度プロやアマチュアであるという条件を取り払って仮定してほしい。自分が一番描きたいマンガを発表できて、そうした作品を一番読みたがる目利きのマンガ好きが多くいる場所があるなら、時間のあるマンガ家だったら作品を試してみたくならないだろうか? それが売れる売れないにかかわらず、才能は誰かが必ず見つけ出し、評価されるべき作品は必ず評価されてきた。ある人は〈コミティアでの反響が無かったら、数作描いてそこで終わってたかもしれない〉と語り、ある人は〈コミティアならわかってくれると思ってました〉と語る(
コミティアとは何か
コミティアは1984年に始まった同人誌即売会だ。プロ・アマ問わず、マンガを描く人たちが、自分で作った本を発表・販売する場である。近年は年4回開催、参加サークルはおおよそ4000~5000、来場者数は2~3万人。マンガが中心だが、イラスト・小説・評論などの本、音楽CD、アクセサリーやグッズなども販売されている。特徴は「オリジナル作品」に限定していること。同人誌という言葉から連想されやすい、既存のマンガやアニメのキャラクターを使って描く「パロディ」や「二次創作」といったファンフィクションは、コミティアには並んでいない。コスプレ参加も禁止されている。
運営するのはコミティア実行委員会。実務担当の法人である有限会社コミティアと、約140人のボランティアスタッフによって構成されている。コミティア実行委員会は自分たちを「自主制作漫画誌展示即売会」と説明する。あえて「同人誌」という言葉を使わないのは、「同人」が、同好の士、同じ趣味の人という内輪向けのニュアンスがあるのと比較して、仲間ではない人、もっと多数の開かれた読者に向けて作品を作ろうという思いが込められているからだ。実際、100誌近い商業マンガ誌が参加し編集者が原稿を見てアドバイスをくれる「出張マンガ編集部」には、年間8000件の持ち込みがあるという。
描き手と読み手が切磋琢磨するもうひとつの舞台として「ティアズマガジン」がある。これは会場に入る際に必要となる入場チケット代わりのカタログで、ただ参加サークルが席順に載っているだけでなく、情報誌のような内容になっているのが特徴だ。作品紹介ページ「Push & Review」は読者が前回購入した同人誌からオススメを紹介するコーナーで、評価の目安として機能しているし、クリエイターや雑誌編集者へのインタビューはマンガ文化史の面からも興味深い内容である。こうした方向性は最初期から参加するマンガ家・
そんなコミティアはどのように生まれたのだろうか。
コミティアの始まり
現在となっては意外なことだが、コミティアの生みの親は現代表の中村氏ではない。発起人であり初代代表となるのは、名古屋のサークル・JET PLOPOSTの東京支部にいた土屋真志氏と、サークル・TEAM COMPACTA主催の熊田昌弘氏の2人である。ぱふのライターでもあった土屋氏は、同誌1984年6月号で熊田氏にインタビューした際に意気投合し、新しい形の創作同人誌の即売会を始めようとした。そこでぱふで同人誌紹介コーナーを担当していた中村氏に相談し、ぱふにも協力してほしいと後援を求めたのがすべての始まりである。1984年春頃のことだった。
コミティアの前に同人誌即売会はすでにあった。コミックマーケットはもちろん、特にコミティアに影響があるのは、東京のMGMと名古屋のコミカ(コミック・カーニバル)である。創作オンリーの同人誌即売会という形式のモデルとなったのはMGMで、日本全国から200サークルが参加し切磋琢磨し合う80年代前半のMGMは、のちに中村代表が〈私にとって理想と思える即売会の姿〉と振り返ったほど。ただ、MGMは会場のキャパシティをオーバーしながらも事情で会場を大きい場所に変えられず参加者が固定化しはじめ、運動体としての限界を迎えつつあった。その代案・差別化として企図されたともいえるのがコミティアで、MGMのように全国から参加作家を集める代わりに、コミティアは全国から同人誌の委託を受け付け、直接参加サークルと委託サークルが対等にある即売会を当初は意図していたようである。実際の運営面ではコミカを参考にしたようで、それは土屋氏がコミカにスタッフとして参加し、そこでノウハウを学んでいたのが大きい。
土屋氏と熊田氏がコミックやコミュニケーションと同じCから始まる単語を辞書で探して「COMITIUM(集会場)」の複数形「COMITIA」という、古代ローマの民会を意味する言葉にたどり着く。運営スタッフは土屋氏を中心に、熊田氏のサークルの面々が10数名、中村氏の個人的つながりから10名近く、ほかに応募してきた数名で、計30名ほど。カタログ表紙イラストは広島のサークルHOT NEWS COMPANYの佐野たかし氏に依頼。こうしてコミティアの第1回は1984年11月18日、練馬産業会館で開催された。
しかし、まずまずの成功を収めた第1回、1985年3月17日の第2回を経て、コミティアはいきなり岐路に立たされる。大学生だった土屋氏が卒業し就職した途端、地方赴任が決まり、代表を続けられなくなってしまった。熊田氏はあくまでサポートのつもりだったので自ら中心になる気はないという。このままではコミティアは終わる……。そうした状況に困惑したのが中村氏だった。会社に無理を言って雑誌として後援することになったのに、いきなり終わられても立場上困る。何より始まったばかりのイベントがもったいない。
「自分が代表を引き受けるしかない」。30年以上続くことになる中村代表体制のコミティアはここから始まった。
コミティアの試行錯誤と「オリジナルVSパロディ」問題
中村氏が代表になってすぐの仕事は会場探しだった。就任後初の第3回は、飯田橋セントラルプラザ・ラムラという駅ビルの、1周年記念行事の一角を借りての開催となっている。家族連れやカップルなど一般客が行き来する場であり、出展者は気恥ずかしさがあっただろうが、これは「同人誌を仲間内だけでなく見知らぬ人に読んでもらおう」という開かれた志による決定だったという。本来は青空の下で行うはずが雨が降ってアーケード下に移動になったというオチがつくものの、ここですでにコミティアらしさを感じずにはいられない。第6回からは400サークル入る東京都立産業貿易センターに、第14回からは1000サークル入る東京流通センターにおおよそ落ち着く。
1980年代中期~後期にかけての状況について註釈を加えておこう。1985年12月頃からの「キャプテン翼(以下C翼)」、1987年夏頃からの「聖闘士星矢」、1988年冬頃からの「サムライトルーパー」といった作品の盛り上がりに象徴される、パロディ/二次創作同人誌の制作が一大ブームとなり、この時期は急速にアマチュアの描き手が増え、同人誌即売会が増えた。コミティアは二次創作は不許可なわけだから、そうした流行とは直接的には無関係ではある。一方で、描き手とイベントが増えたということは同人誌印刷所の仕事が増えたというわけで、そのぶん印刷費が安価になり、個人誌が増えていった。それまで同人誌は印刷費用を折半する意味もあって多人数で集まって作るのが当たり前だったのが、3人誌、2人誌、個人誌と参加人数が減っていく。同人誌を作るのに仲間を集めなくてもよくなったのである。そうなると同人誌に複数の作品が載ることは減り、1冊1作品のフォーマットが普及していく。パロディ同人誌の増加による印刷環境の改善は、創作同人誌の作家にも間接的に影響を与えたといえる。
ただ、オリジナル作品を描きたい・読みたい側にとって、パロディによって盛り上がる同人誌の状況に、同調できるかは別問題だった。先のMGMは、C翼本を出していたサークルはオリジナル本での参加でも拒否したほどだ。この時期のコミティアのカタログを見ると「オリジナルVSパロディ」の議論が白熱している。単純にパロディをダメと決めつけるわけではく、たとえば中村代表も〈多くのサークルがオリジナルを名乗りながら既成のパターンの縮小再生産を繰り返している〉として〈パロディの方がよほど胸を張って作品への“愛”を雄弁に語っている〉と書く(1987年3月開催コミティア第6回カタログ、以下同)。ほかにも〈創作がアニパロよりすぐれているかというと、必ずしもそうではない訳です。本の作り方、装丁など、むしろ見習わねばいけない点も多いと思います〉(伊吹真氏)、〈本の装丁、レイアウト、他どれ一つとっても、いまの創作系で匹敵しうるものは少ないと思う〉(筆谷芳行氏)といった、本作り・装丁への気配りを肯定的に見る意見も目立つ。当時のコミティアにとって、パロディの盛り上がりは、創作作家へはっぱをかける格好の材料だった。80年代のパロディ同人誌の興隆は、創作同人誌の質的向上と無関係ではなかったのである。
やがて、コミティアは1988年頃から、C翼パロディを出していたみずき健氏や、同じくC翼本を出していた
人気サークルの登場と地方コミティアのスタート
中村代表は1988年8月号からぱふの編集長に就任。以前よりも忙しくなっていたはずだが、むしろコミティアは拡大を続けていった。特にマーケットとしての存在感が増していったのが1980年代末~1990年代の特徴である。すなわち、来場者が増え、買うために行列ができ、何百部も売れるサークルが登場しはじめたのだ。なかでも内藤泰弘氏のサークル・鴨葱スウィッチブレイドはコミティア史においてエポックな存在であり、最初の同人誌「サンディと迷いの森の仲間たち」(1989年4月発行)は、中村氏が〈あまりに見事に完成されている〉〈コミティアに乗り込んできたひさびさの核弾頭〉と絶賛。ほどなくして内藤氏の同人誌を買うために一般客が並ぶようになりはじめ、同人誌を出すたびにハガキアンケートで第1位になる現象が起きた。
この時期の人気サークルとして吉祥寺倶楽部(リスプII)も欠かせない。すでにボニータ(秋田書店)など商業誌で活動していた東宮千子氏を中心に1990年に結成されたサークルで、第19回では760冊、第20回では1167冊が売れ(「ティアズマガジVol.21」売上冊数ランキング参照)、コミティアのこれまでの売上記録を大きく塗り替えた。オリジナルの同人誌が1回で1000冊以上売れるというのは、現在でもそう簡単に達成できる数字ではなく、当時のコミティアが成長真っ只中にあったことの証だろう。ちなみに、同サークルに参加していた芳崎せいむ氏は、コミティアで原画展を開催したり、代表作「金魚屋古書店」にコミティアのシーンを登場させるなど、近年も何かと縁がある。
人気サークルが登場するようになったコミティアは、作品と人をつなぐ役割=メディア化を推し進めていく。象徴的な動きは「コミティアパーソナルコミックス」。これはコミティアが発行元となる単独作家の作品集シリーズで、支持したい作家をもっとプッシュしていこうとする企画である。読者アンケートでは上位だが売上ランキングでは上位ではないとか、在庫切れで入手困難だとか、そういった作品を再提示する役割を担った。第1弾はサークル・ひつじにいた三縄千春氏の「パピヨン」で、露崎雄偉「そんな気がする」、山川直人「シリーズ間借人」……と続き、途中休憩をはさみながら2004年の松本藍「セルフポートレート」まで全20作が刊行された。
1991年の第20回からは1000サークルに迫る規模となり、あわせて地方コミティアも動き出した。これは「創作オンリー」という姿勢に賛同した団体に、「コミティア」という看板を使ってその土地ごとに即売会を開催してもらう緩やかなネットワークで、現地のスタッフが運営を行い、採算も独立、カタログも独自に作るフランチャイズシステム。新潟コミティア(1991年11月~)を皮切りに、名古屋コミティア(1993年1月~)、関西コミティア(1993年4月~)が始まった。現在はさらに北海道コミティア(2014年1月~)、みちのくコミティア(2015年7月~。福島県)、九州コミティア(2017年2月~)が存在する。地方ごとに細かなルールは違っており、例えば関西コミティアはアクセサリーやグッズだけでの参加は不可、みちのくコミティアはオリジナルならコスプレ可、といった具合で、近くにお住まいの方は一度それぞれの公式サイトを確認するといいだろう。
「ティアズマガジン」の充実化と原画展増加
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