30年続いた平成の間に音楽シーンは激変した。この先、音楽はどのように進化していくのだろう? それを知るために、音楽ナタリーでは「平成の音楽史」と題した特集を数回にわたって掲載。これにより平成の音楽と社会の変遷を振り返っていく。まず初回は、平成元年になった1989年からトレンディドラマ最盛期を迎えた93年頃までの流れを追う。
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“川の流れのように”始まった平成
ある日突然「昭和」が去り、「平成」がやってきた。
昭和天皇が緊急入院されたのは1988年9月19日。日本社会が徐々に自粛ムード一色に染まっていく中、翌89年1月7日には昭和天皇が崩御。この日で60年以上続いた激動の昭和が終わり、翌8日から平成という名の新時代が幕を開けた。
「オリコンホットチャート100」によると、昭和最後のシングルチャート(89年1月2日付)で1位を飾ったのは前年10月26日にリリースされた長渕剛「とんぼ」。また、平成元年4日目の1月11日には美空ひばりの生前最後となるシングル「川の流れのように」も発売されている。昭和という時代を歌ってきた長渕が昭和最後のチャートで1位を飾ったこと。美空ひばりという昭和の大歌手が平成に入ってからわずか5日目に最後のシングルを発表し、その5カ月後にこの世を去ったこと。どちらも昭和から平成へ時代が移り変わる時期の象徴的な出来事と言えるだろう。
平成に入ってからのシングルチャート(1989年1月16日付)首位は男闘呼組「秋」、2位が工藤静香「恋一夜」、3位が長渕剛「とんぼ」。印象的なのは、以降にBARBEE BOYS「目を閉じておいでよ」(8位)、TM NETWORK「COME ON EVERYBODY」(16位)、HOUND DOG「NO NAME HEROES」(19位)、REBECCA「One More Kiss」(21位)、BUCK-TICK「JUST ONE MORE KISS」(28位)など、ロック系アーティストがチャートインしていることだ。こうした傾向はその前年から顕著になりつつあった。オリコン年鑑に掲載されたアーティストセールス比較によると、首位こそその年一大旋風を巻き起こした光GENJIがひた走るが、10位以内にBOOWY(「BOOWY」の2つ目のOはストローク符号付きが正式表記)とREBECCAがランクイン。平成元年になると数多くのバンドがヒットを連発する。いわゆる“バンドブーム”の到来だ。
ブームの担い手となったのは、団塊ジュニアとも呼ばれた70年代前半生まれの世代。当時、雑誌「バンドやろうぜ」(88年8月創刊)の編集者だった吉田幸司は「音楽主義」で公開されているインタビューにおいて、80年代中盤から原宿の歩行者天国(ホコ天)がアマチュアバンドのメッカとして注目を集め始めたこと、「バンドやろうぜ」など音楽雑誌の通販で安く楽器を買えるようになったことをブームのきっかけとして挙げている。
また、バンドブームの裾野を全国規模で広げたという意味では、CBSソニー / EPICソニーを筆頭とするメジャーレーベルの力も大きい。そうしたレーベルの猛プッシュにより、メジャー系ロックアーティストの情報ならばテレビやラジオからいくらでも流れてくるようになった。その結果、バンドはそれまでのように一部の特別な若者がやるものではなく、地方在住者も含むごくごく普通の中学生や高校生がやるものになったのだ。
プリンセス プリンセスに見る女性の躍進
バンドブーム期における新たなロックバンド像を提示したのが、89年に「Diamonds」「世界でいちばん熱い夏」という特大ヒットを2曲もチャートに送り込んだプリンセス プリンセスだ。ジャーナリストの烏賀陽弘道は「Jポップとは何か -巨大化する音楽産業-」の中で、平成に入ってからプリンセス プリンセスや渡辺美里、永井真理子、中村あゆみ、山下久美子ら女性アーティストが人気を獲得した背景をこのように分析している。
歌にしろ本人の人物像にしろ、彼女たちに共通しているのは「夢をかなえるべく前向きにがんばり、成長していく女性像」だった。彼女たちの人気を支えていたのは、実はCDの購買層として新しく登場した女性である。ガールズ・ポップの歌手たちは、女性から見て好ましい女性像を個性として見せていた。これは、アナログレコード時代にデビューしたスター女性歌手たちが、男性を購買層に想定していること、あるいは人気を支えたのが男性層だったのとは対照的である。
(中略)
彼女たちがデビューしたのとほぼ同時期の86年4月に「男女雇用機会均等法」が施行されたことも忘れてはなるまい。この法律のおかげで、企業は性別を理由とした雇用差別ができなくなった。これは女性が男性と同等の所得を得て、同等の購買力を身につけるという時代の幕開けでもある。
(烏賀陽弘道著「Jポップとは何か -巨大化する音楽産業-」)
地方の中高校生や女性たちといった購買層の拡大が新たなスターの登場を促したわけだが、そうした変化は、この時期数多くの“ライヴヴェニュー”が都心を中心にオープンしたことにも現れている。
渋谷CLUB QUATTRO、東京ベイNKホール、MZA有明、川崎クラブチッタ(現CLUB CHITTA’)、日清パワーステーションはすべて88年に開館。同年3月には東京ドームがオープンし、19日にTHE ALFEE、22日にミック・ジャガー、4月4日、5日にはBOOWYの「LAST GIGS」、4月11日には美空ひばりの復活公演という日本の音楽史に残る公演が行われた。時代はバブル真っ只中。それまでのような煙草と酒まみれのライブハウスとは異なり、クリーンなイメージを打ち出したそれらのヴェニューは、平成以降に現れたロック購買層を受け入れるためのものでもあったのだ。
進む都市化と「J-POP」
この時期は音楽のフォーマットがレコードからCDへと本格的に移り変わったタイミングでもある。音楽評論家の田家秀樹は「読むJ-POP 1945-1999私的全史 あの時を忘れない」でこう書いている。
アルバムのセールスの中で、CDが、アナログLPを凌いだのが88年だった。前年の三倍増の53.7%を占め、それまでの比重を逆転した。タイトルにCDの文字が入った音楽雑誌が登場したのもこの頃からだった。翌89年になると、アナログは製作されず、CDのみという形がほとんどになっていった。
(田家秀樹著「読むJ-POP 1945-1999私的全史 あの時を忘れない」)
CDというフォーマットの浸透は再生装置の低価格化などさまざまな変化を促しただけでなく、リスナー側にも音楽を取り巻くあらゆるものごとが未来に向かって変わり始めたことを強く印象付けた。田家の言う「タイトルにCDの文字が入った音楽雑誌が登場」とはマーケットの変化に対応するものであると同時に、“平成”という時代と共にやってきた新時代のイメージを打ち出したものでもあった。
昭和から平成へと移り変わるこの時期、「J-POP」という言葉が誕生したことも忘れてはならない。その言葉を生み出したのは88年10月に放送を開始したJ-WAVE。先述の烏賀陽弘道「Jポップとは何か -巨大化する音楽産業-」によると、洋楽専門ラジオ局としてスタートしたJ-WAVE内で邦楽コーナーを立ち上げることになった際、「英語のディスクジョッキーがそれら日本のポップスを紹介する際、どのような言葉を使うべきか?」という話し合いが局やレコード会社のスタッフの間で持たれ、“シティポップス”や“タウンミュージック”という案が出る中で、最終的にはJ-POPという言葉が採用されることになったという。J-WAVEのチーフプロデューサーだった斎藤日出夫は同書内でこう発言している。
まず、演歌やアイドルはダメ。サザンオールスターズ、松任谷由実、山下達郎、大瀧詠一や杉真理はいい。が、アリスやチャゲ&飛鳥、長渕剛はちがうだろう、というふうに感覚的に決めていった。
(烏賀陽弘道「Jポップとは何か -巨大化する音楽産業-」)
アリスやチャゲ&飛鳥、長渕剛のようなある種の土着性を引きずったアーティストではなく、“洋楽として聴ける邦楽”。そこには土着性の反対にある都会的感覚や、同時代の欧米ポップミュージック / ダンスポップの導入が前提にされていたわけだが、その意味では、のちにJ-WAVEが“渋谷系”(とカテゴライズされる)アーティストをプッシュしたのも当初の理念からすれば当然のことだったのだろう。
ただし、J-POPという言葉そのものはその理念から離れ、小室哲哉やつんく♂らを通じ、土着的精神性・美学と洋楽的センスと混ざり合ったハイブリッド音楽として発展していくこととなる。
ドラマ主題歌、カラオケ、メガヒット
平成に入ってからの数年は、メガヒットが次々に生み出された時期でもあった。「読むJ-POP 1945-1999私的全史 あの時を忘れない」によると、シングル / アルバム年間ミリオンセラーの数は90年が3枚だったのに対し、91年が13枚、92年が25枚と倍増。また、90年まではアルバムの売り上げがシングルを上回っていたが、その後シングルが上回るようになる。例えば91年であれば、松任谷由実のアルバム「天国のドア」の売り上げを小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」とCHAGE and ASKA「SAY YES」が上回っている。
その背景にはいくつかの要因があった。まずは80年代半ばからカラオケボックスが登場し、全国規模で普及したこと。そのことにより、アルバムよりもシングルヒットが重視されるようになっていく。時代は“聴くもの”から“歌われるもの”へ。歌いやすいメロディや歌詞が求められるようにもなっていった。
また、カラオケの浸透と共に大きかったのが、ドラマやCMとのタイアップ。当時は現在よりもテレビが絶大な影響力を誇っていた時代だ。「金曜日の妻たちへ3・恋におちて」主題歌として大ヒットを記録した小林明子「恋におちて -Fall in love-」(85年8月)などの前例はあったものの、平成に入って以降、数多くのタイアップ曲が爆発的なセールスを上げていくことになる。
特にバブル後期になって制作数のピークを迎えていたトレンディドラマはメガヒットを量産した。双葉社「80~90s 懐かしのトレンディドラマ大全」に掲載されたリストからその一部をピックアップしてみよう。
91年2月 小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」(『東京ラブストーリー』)
91年7月 CHAGE and ASKA「SAY YES」(『101回目のプロポーズ』)
92年2月 浜田省吾「悲しみは雪のように」(『愛という名のもとに』)
92年5月 米米CLUB「君がいるだけで」(『素顔のままで』)
92年7月 サザンオールスターズ「涙のキッス」(『ずっとあなたが好きだった』)
93年11月 藤井フミヤ「TRUE LOVE」(『あすなろ白書』)
「君がいるだけで」の売上枚数はなんと290万枚。「SAY YES」は280万枚、タイアップの流れを作った「ラブ・ストーリーは突然に」も260万枚というのだから、バブルの熱狂があったとはいえ凄まじい枚数だ。
中でも際立って、アニメやCMとのタイアップで大きな成功を収めたのがレコード / 音楽マネジメント会社のビーイングだ。B’zやZARD、WANDS、T-BOLANらを擁する同社は90年代初頭から勢力を拡大。93年にはシングルセールスのトップ20のうち10組を輩出するという大きな成功を収めた。カラオケで歌われることを前提にしつつ、CMの短い時間の中でもインパクトを残す曲作りは、以降ヒット曲を生み出す際の方程式にもなった。
そんなビーイングの究極形態が、90年4月にリリースされたB.B.クィーンズの「おどるポンポコリン」。ビーイングは80年代から活動を続ける職人的ミュージシャンやソングライターを多数擁するプロデューサーチームでもあったが、現在までに150万枚以上の売上を記録したこの曲を作詞作曲したのもまた、ビーイング立ち上げ時から参加していた亜蘭知子と織田哲郎であった。
86年から87年にかけて始まったバブル景気は、91年には崩壊。ただし、CDという新たなフォーマットの登場によって好景気を迎えていた音楽マーケットは、その後も順調に成長を続けていく。次回は売上枚数の頂点を迎えた93年から98年までの5年間を振り返ってみたい。
<つづく>
※記事初出時、本文に誤りがありました。お詫びして訂正します。
(参考文献)
「オリコン年鑑 1989年度版」(オリジナルコンフィデンス)
烏賀陽弘道「Jポップとは何か -巨大化する音楽産業-」(岩波新書)
田家秀樹「読むJ-POP 1945-1999私的全史 あの時を忘れない」(徳間書店)
鍛冶博之「カラオケの商品史」(同志社大学)
「80~90s 懐かしのトレンディドラマ大全」(双葉社)
「音楽シーンで振り返る“平成” 際立つビーイングの存在感」(ORICON NEWS)
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- 大石始
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世界各地の音楽・地域文化を追いかけるライター。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」主宰。主な著書・編著書に「奥東京人に会いに行く」「ニッポンのマツリズム」「ニッポン大音頭時代」「大韓ロック探訪記」「GLOCAL BEATS」など。最新刊は2020年末に刊行された「盆踊りの戦後史」(筑摩選書)。サイゾーで「マツリ・フューチャリズム」連載中。
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