古典から現代劇まで、多様な作品を通じて“人間の現在(いま)”を浮き彫りにしてきた栗山民也が、三浦透子の一人芝居「プライマ・フェイシィ」の演出を手がける。「プライマ・フェイシィ」は2019年にオーストラリアで初演されたスージー・ミラーの戯曲で、気鋭の法廷弁護士であったテッサが、自分の立場が変わったことをきっかけに、自らの過去や生き方、社会を見つめ直していく物語だ。ステージナタリーでは、初日を約2週間後に控えた6月中旬、栗山にインタビュー。戯曲を一読して“法廷から広場へ”というキーワードが浮かんだという栗山に、作品についての思いを聞いた。
また後半は映画監督の岩井俊二、テレビプロデューサーの佐野亜裕美、映画監督の濱口竜介に、“俳優・三浦透子”の魅力についてメッセージを寄せてもらった。
※トリガーアラート:本作品には性的暴行についての表現や描写があります。
取材・文 / 川添史子撮影 / 須田卓馬
ザ・スズナリに「ここしかない」とインスピレーションが湧いた
──ザ・スズナリという、かなりコンパクトな小空間で、緊密な栗山演出を体感する贅沢な体験になりそうです。栗山さんがスズナリで演出するのは、これが初めてでしょうか?
稽古に入る前、スタッフとスズナリに下見に行ったんです。そうしたら劇場の方が、僕がベルトルト・ブレヒト「夜うつ太鼓(Trommeln in der Nacht)」(1983年8月、演劇集団ホンダスタジオ新人奮闘公演)を演出したときの資料を見せてくれたんです。それ以来ですから、実に43年ぶりになります。「プライマ・フェイシィ」の舞台の中心は法廷ですから、当初から舞台と客席に距離があるような「客観的にドラマを観る大空間ではできないな」とは感じていました。劇場の中に入り、むき出しの空舞台の風景の中にポンと立った瞬間「ここしかない」というインスピレーションが湧いて、下見の段階で今回の演出プランの大枠が見えたような気がしました。まるで小宇宙のような場所。この戯曲を最初に読んだとき、「法廷から社会へ、そして広場へ」という言葉が頭に浮かんだんですね。
──詳しく教えてください。
一番最初に戯曲を読む際、つまりそこに描かれた世界に“出かけていく”時間を、僕はとても大事にしているんです。右手にペンを持って「舞台装置はこうかな、光はこっちからだな」と台本の余白に簡単なスケッチをしながら、途中でコーヒーブレイクも入れずに、2時間の芝居だったら2時間で読む。演劇は時間の芸術ですから、幕が開いてから降りるまでに、観客が何をどう感じていくかを実際に体感していくわけですね。この戯曲を読んだときに僕の頭には、法廷という一つの小空間から、彼女がそのまま社会へ向かい、そして人々の集う広場に降りていく……一つの舞台からどこまでも彼女の声が広がっていくような光景が浮かびました。
「プライマ・フェイシィ」は演劇だからこそできる戯曲構造
──なるほどおっしゃるように「芝居が終わったらおしまい」ではない、考え続けるべきテーマを共有するような感覚が残りました。ぐいぐいと引っ張るようなモノローグの連なり、独特の文体も実に面白い一人芝居です。
なぜスージー・ミラーという劇作家がこの物語を一人芝居にしたかということをずっと考えているのですが、やはりこの芝居の中心が、たった1人で立つ証言台だからでしょう。リアリズムのダイアローグからモノローグに変化していく演劇的手法がいろいろなカタチで使われているわけですが、このモノローグがリアルに語られているのか、あるいは彼女の心の声なのか、その線引きが曖昧なのも、彼女の揺れる心理の行方と同様に複雑で面白い。いわばシェイクスピアのモノローグのように、自分の中のもう1人の自分と闘っているようなニュアンスを含んでいる。だからこれを、ただの“心の声”として単純化してしまうとつまらないでしょうね。
──確かにシェイクスピアのモノローグは、ただの心の声ではなかったり、だからといって朗々と聴かせるだけではなかったり、さまざまな種類があります。幾層ものレイヤーを含むセリフになっていますね。
劇空間だからこそ、その複雑で多様な表現ができるんですね。演劇のセリフが持つ重層感のお話で言えば、僕の大好きな作品にジャン・アヌイの「アンチゴーヌ」という芝居があるのですが、主人公が何度も「わからない」とつぶやくのです。この「わからない」という言葉、AIには絶対に言えない(笑)、ある意味人間にとって一番の真実を示している大事な言葉だと僕は考えます。「はい」と「いいえ」を100%の確信で答えられる人間なんていなくて、2つの答えの間には無数の感情のグラデーションがありますよね。その濃淡のある感情の一つを見つけ出して声にするのが俳優の仕事であって、だからこそ演劇の言葉ってどこまでも永遠だと思えるのです。この芝居は、性暴力という実に複雑な事例を扱っています。これを1人の女性の現在形の激しく揺れ動く真実の声として届ける……まさに演劇だからこそできる戯曲構造になっているんです。
──法律では白か黒にせざるを得ない事柄でも、演劇なら1人の人間の中にあるさまざまな思いを、複雑な声=真実として伝えられる……そして彼女はある発見をしますね。
劇中に「自分の声を見つけた」というセリフがありますが、まさに芝居の稽古というものは、自分の新しい声を探す作業だと思っています。彼女の発する声が物語の経過とともに変わっていく。弁護士の黒の法衣とかつらを脱ぎ、1人の女性として証言台に立たされる中で、彼女は一つの人間の声と出会い、語り続けるのです。そして最終景では、男性が女性を所有し続けてきた長い権力構造の歴史がそこに浮かび上がり、現行の法制度と向き合い、男性が都合よく作ってきた世界の在り方について問うのです。
──以前、栗山さんが演出された一人芝居「殺意 ストリップショウ」(2020年)の稽古場を拝見した際、とても静かで穏やな空気が流れていたのが印象に残っています。
一人芝居は俳優のリズムと生理が一度狂いだすと、どこに行っちゃうかわからない。だから1人の演者の心と身体を壊さないためにも、稽古場は冷静であるべきでしょう。
──数時間をたった1人で走らないといけないですからね……。
心と体と声と筋力、その感情のリズムとバランス。そのいろいろな要素をどうつなぐか、演者自身が稽古を続ける中で見つけ創るのが、一人芝居の絶対的な条件であると言えるでしょう。
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セリフに現在の自身の感情が見える俳優・三浦透子



