「福岡ミュージックマンス」開催記念特集|小山田壮平、愛すべきホームタウン福岡を語る

“音楽都市・福岡”を国内外にPRすることを目的に、音楽フェスの各主催者と福岡市が2014年に共同でスタートさせた音楽の祭典「福岡ミュージックマンス」。今年も9月から10月にかけて7つの音楽フェスが連携し福岡の街を盛り上げる。

またSpotifyとの協働企画として、昨年には「福岡ミュージックマンス」のポッドキャストとプレイリストが配信され、各フェス / 音楽ベニューのスタッフやさまざまなクリエイターが参加した。同プロジェクトは継続して行われ、今年は、生まれ故郷の福岡を拠点に活動する小山田壮平(ex. andymori)がプレイリスト企画に参加し、「福岡をイメージする曲」をテーマに選曲を手がけた。

音楽ナタリーでは「福岡ミュージックマンス」の開催を記念して小山田へのインタビューを実施。少年時代を過ごした飯塚市や福岡市の思い出、東京での音楽活動を経て、今現在暮らす福岡での活動のスタンスや、その中から生まれた新曲「夕暮れの百道浜」についてや、福岡と音楽との関わりについてなど、小山田が今思うことを聞いた。またインタビュー後半ではプレイリストの選曲について語ってもらった。

取材・文 / 松永良平撮影 / 常盤響撮影協力 / FOOLS GOLD

福岡ミュージックマンスとは?

「福岡ミュージックマンス」ロゴ

音楽が盛んな街・福岡を象徴するように、たまたま9月に5つのフェスが集中していたことに着目し、それらが連携することで“音楽都市・福岡”を国内外にPRすることを目的に各フェス主催者と福岡市が2014年に共同でスタートさせたプロジェクト。「BAYFES」「NAKASU JAZZ」「Sing!HAKATA」「ISLA DE SALSA」「MUSIC CITY TENJIN」の5つの音楽フェスに加え、2026年は新たに「Synapse Festival」「INSPIRATION by SUNSET LIVE」という2つのフェスが参加し、9月の第1週目から10月の第2週目までの毎週末、フリーライブを含めて7つの音楽イベントが福岡で開催される予定。

公式サイト

高校時代はアコースティックギターを持って中洲で流しをしてました

──小山田さんは1984年生まれで、ご実家は福岡県飯塚市。福岡県の中部にあって「筑豊」(福岡県の中央部で、かつては炭鉱地帯として栄えた地域)と呼ばれる地域ですよね。飯塚ってどんな街ですか?

じいちゃんばあちゃんからは炭鉱で働いてた時代の話も聞いたりしてました。飯塚の街はガラが悪いってよく言われるんですけど、確かに振り返ってみるとクラスメートにヤンキーも多かった。ただ、僕にとっては、田んぼとか、のどかな田舎の景色が一番の印象としてはあります。釣りが好きだったんで、よくブラックバスを釣りに行ったり、川でフナ釣りもしてました。

小山田壮平

──筑豊から見て、福岡市はどんな印象でした?

福岡市に行くときは、街の中心よりも海沿いの海の中道(国営海の中道海浜公園)によく連れていってもらってましたね。いとこが海の中道に近い東区の和白という街に住んでいたんです。父親がパラグライダーをやっていたので、奈多海岸で飛んでいるのを見て、ちょっと釣りもして帰ってくる、みたいなパターンもありました。中心部の天神とかに行く機会は数えるくらいしかなかったかな。あのあたりはとんでもない大都会で、行っても「どうしよう?」ってうろたえる感じでした(笑)。

──福岡市内にライブを観に行ったりもしてました?

何回かありますね。マリンメッセ福岡でTHE YELLOW MONKEY、福岡ドームでB'z、あとはDRUM Be-1で、TimeSlip-Rendezvousを観に行ったりしました。あと、アビスパ福岡が大好きだったんで、博多の森(東平尾公園博多の森球技場)によく試合を観に行ってました。その当時、飯塚には吉野家がなくて、帰り道に福岡市内で父親に連れてってもらって食べる吉牛が大好きでした(笑)。

──高校は福岡市内の福岡大学附属大濠高校に進学されますよね。

大濠高校って当時は男子校で、第1志望の学校に行けなかった子たちの集まりでもあったんです(笑)。だからなのか、開き直ったようなエネルギー、突き抜けるようなパワーがみんなすごくあったと思いますね。天神によく遊びに行くようになったのは高校時代からです。最初はちょっとドキドキしながら友達についていって。大名のド真ん中にあるカラオケ店で遊んだりしてると、すごく都会人になったようで、それだけでうれしくなりました。

小山田壮平

──映画やライブとか、そういう場に触れる機会も飛躍的に増えていったのでは?

高校時代はライブハウスに行くよりも、アコースティックギターを持って、中洲で流しをしてました。まだ福岡ソフトバンクホークスが福岡ダイエーホークスだった頃で、応援歌の「いざゆけ若鷹軍団」を弾き語りしたら、酔っ払いのおっちゃんに5000円をもらった。あれは大きな成果でした。

──音楽で稼いだ初めてのギャラとも言える?

そうなりますね(笑)。その当時は主にコピーをしてました。尾崎豊、ゆず、スピッツ、Mr.Children……。ヒットソング詰め合わせの楽譜集を見ながら歌ってました。

──中洲という人通りの多い場所で、ストリートミュージシャンをやるのって、それなりに度胸が必要ですよね。

最初は緊張感がありましたよ。ゆずが路上で歌っていたことの影響もあったし、フォークソングは両親の影響ですごく好きだったんです。弾き語りは自分が家でやる一番好きなことだったので、それを聴いてもらいたいというのが大きかったんじゃないかな。

──福岡の皆さんもこの記事を読まれると思うんですが、小山田さんは中洲のどのあたりで歌っていたんでしょう?

一番は「であい橋(福博であい橋)」です。あそこが一番、歌ってても止められないし、人通りも多い。開放的な気分になる場所でしたね。5000円をゲットしたのもそこでした(笑)。

小山田壮平

東京の人に比べて福岡人はパンチがあるし、グイグイくる(笑)

──高校では演劇部に入ってたんですよね?

もし軽音楽部があったら入ってたと思うんですが、なかったんです。演劇部に入ったのは、クラスの友達がやっていたのと、たまたま母親が飯塚の地元劇団員だったので興味があったからです。2年生の初めにフラッと入部した感じでした。

──高校生は多感な時期だし、その頃に知った音楽で大きく刺激を受けたものもある?

スピッツとかミスチル、尾崎豊かな。海外の音楽で言うと、Aerosmithを聴いたのも大きかったですね。オルタナティブなロックは大学生になってから聴き始めた感じです。自分のオリジナル曲も1、2曲は作って歌ってましたね。高校では予餞会という催しがあって、そのために1曲書いたりしました。

──いわゆる送別会ですよね。

自分が送られる側だったのか、送り出す側だったのかは覚えてないんですけど、1000人以上いる全校生徒の前で、友達と3人でギターを弾いて歌いました。その曲は、矢沢永吉さんが生まれ故郷の広島から横浜に向かうときに「横浜、俺のリバプール」って言ったという話をドラマか何かで観たことに影響を受けて、「横浜、俺のリバプール」というタイトルを付けました(笑)。めちゃくちゃ恥ずかしい内容ですが、とにかく「上京したい!」という気持ちが強かった。僕もそういう野心があったので、矢沢さんの言葉にグッときたんだと思います。

──高校卒業後、県外に出る人と、地元に残る人とに分かれると思うんですが、小山田さんは前者で、しかも東京に対する気持ちが強かった。

「音楽をやるなら東京しかないだろ」と完全に思ってましたね。3つ上の姉が先に大学で上京していたというのもあったし、月9ドラマも好きだったし、東京への憧れはありました。自分は福岡人だという自覚もあったけど、さらに上を目指したい気持ちがあったんだと思いますね。

──福岡には「めんたいロック」と呼ばれるムーブメントもあるし、地元にとどまってシーンを作ってきた個性豊かなミュージシャンもいる一方で、中央に出て活躍している才能もたくさんいる。上京してから、福岡を振り返ってみて、違う印象は抱いたりしました?

東京からたまに戻ってきたときに、「これって、すごく福岡っぽいことだったんだ」っていろいろ発見しましたね。人の感じだったり、顔つきだったり……全然知らない人なのに、何回も会ったことがあるような気がする。懐かしいなって思うんです。

小山田壮平

──福岡人の感じというのは?

やっぱり、外に開いてますよね。なんかパンチがあるし、グイグイくる(笑)。東京の人に比べて、他者との境界が薄いんじゃないかな。文化的な面でもそうだろうし。あれは福岡人の遺伝子なのか……。

──東京で暮らしていると、高円寺と下北沢はともにロックっぽい街と見られますけど、実はそれぞれはかなり歴史も性格も違うし、そんなに交わってないんです。福岡も細かく見れば境界線はあるんでしょうけど、もっと混ざってるし、開かれてる。その感覚はわかる気がします。

パカーン!っていう博多らしい感じ。それはよくわかる反面、僕自身はそういう人間じゃないという自覚もあるんです。だけど、どこかでそういう開かれた感覚の心地よさも自分の中には残っていて。東京にいると、ちょっと博多っぽい振る舞いをしたりしてますね(笑)。自分の中にもちょっとは福岡らしさあるんだろうなと感じます。

2026年7月24日更新