Ciely「DEFIANCE」特集|「トレチャン」優勝のオルタナソロプロジェクトが放つ“宣戦布告”

猪﨑宙生(いざきそらい)による“オルタナティブソロプロジェクト”Cielyが、活動4周年記念日の5月3日に配信シングル「DEFIANCE」をリリースした。

Cielyは2024年に地元である愛知のフェス「TREASURE05X」のオーディション「トレチャン」でグランプリを獲得。それまではソロ活動を行っていたが、「トレチャン」優勝を機にバンドスタイルへと移行し、ロックシーンへと勢いよく飛び込んだ。新曲「DEFIANCE」にはそんな彼の宣戦布告とも言える強いメッセージが刻まれている。

音楽ナタリーではインタビューを通して、学生時代からさまざまな音楽シーンで戦ってきたCielyのこれまでの軌跡を明らかにする。

取材・文 / 真貝聡撮影 / Ryohei Haga

空手一筋の少年でした

──今回はオルタナティブソロプロジェクト・Cielyの活動はもちろん、猪﨑さんの半生についてもお聞きしたいと思います。幼少期はどんなお子さんでしたか?

そうですね……物心ついた頃には空手をやっていました。両親が言うには、テレビがきっかけらしいです。バラエティ番組で道着を着て空手を披露する人を見て、幼かった僕が「あ、これやる!」と言ったみたいで。気付いたときには、自分も帯を締めて稽古をしていました。小学2年生の頃には、「これを一生続けていくんだろうな」と思っていましたね。

──それだけ熱中していたんですね。

小学校で大切な人に向けて手紙を書く授業があって。みんなは母親とか父親に宛てて書いていたけど、自分は師範に「僕も空手の先生になります」と書きました。当時はそれくらい空手一筋の少年でしたね。

──空手のどこに面白みを感じていました?

聞いた話では、母親が地域で一番礼儀に厳しいと言われている道場に入れてくれたらしいんですよ。だから面白さというより、周りの友達が経験していないことを自分はやっている、という謎の充実感が常にありました。裸足で外を走ったり、寒稽古といって正月に神社の前で稽古したり。そんなこと、小学生でなかなか経験しないじゃないですか(笑)。

──僕も小学生の頃に空手を習っていたので、その感覚はよくわかります。ごつごつした岩場の上で正拳突きをするとか。

そうそう! 言ってしまえば、「なんでこんなことをやらないといかんのだろう?」みたいな感覚。そういうちょっとした理不尽に対して、受け入れる力や適応する力が自然と身についているのを感じながら、空手に向き合っていた記憶があります。

──適応力もそうですけど、稽古中に大きな声を出さなきゃいけなかったり、昇級試験で審査員の前に立って型を披露したりと、空手をやっていると度胸もつきますよね。

それはありますね! 人前に立つ度胸は、そのときに培われたのかもしれないです。昇級試験では、5人ほどの審査員に加えて、周りには参加者や親御さんが大勢いる中、1人で型を披露するんですよね。道場は畳なのに、試験会場は体育館だったんですよ。しかも、正座をしながら自分の順番を待つ。足がめっちゃ痺れてるのに、名前を呼ばれたらすぐに型をやらないといけない……。

──なんで大事な審査をバッドコンディションでやるんだっていう。

本当にそう! なんで普段と違うんだよって。「めちゃくちゃ理不尽だな」と思いつつ、そのおかげでメンタルが強くなったなとは思いますね。

──空手はいつまで続けたんですか?

中学2年生くらいまではやっていて、音楽を始めたいと思ったタイミングで道場に行かなくなりました。それでも7年近く続けていたので、そう考えると長いですよね。

Ciely

親からのありがたい助言

──空手に打ち込んでいるときから、音楽は好きでした?

好きでした。両親がバンドマンというのもあり、ウクレレとかちょっと特殊な楽器が家にあって、音楽が身近にある環境だったんですよ。ちなみに中1くらいまでは、ジャニーズ(現STARTO ENTERTAINMENT)にどハマりしてました。「自分もアイドルになりたい」とかじゃなくて、オタクとして好きでしたね。「大野(智)くん大好き!」「山P(山下智久)カッコいい!」みたいな。学校にもジャニオタっているじゃないですか。女子の輪に入るのは抵抗があったので、男子のジャニーズ好きな子たちと仲よくしていたんですけど、そこには先輩が多かったんです。その先輩たちが「文化祭で嵐を踊ろう」と言い出して、僕も踊ることになりました。その中にブレイクダンスをやってる先輩がいて、その人のもとでダンスを始めたのが中学2年のとき。ちょうどそのあたりから、空手に行かなくなりましたね。

──とあるインタビューで「ある男性グループの歌とダンスを披露した」と言っていましたけど、それは嵐のことだったんですね。

そうです! 以前のインタビューでは「文化祭で人前に立つのが楽しいと思った」とか「肝が据わった」と言っていたんですけど、今思い返すと最初にそれを感じたのは空手ですね。

──文化祭よりも前に、もっと根深い経験をしていた。

もっと根深くて濃い経験が幼少期にありました。理不尽と戦いながら空手をやっていたから、全校生徒の前で歌って踊るなんて屁でもなかったです!(笑) 文化祭をきっかけに音楽をちゃんと好きになったタイミングでUVERworldやSPYAIRと出会い、いわゆるロックバンドという存在を知るんですよ。それまでは歌って踊って、バラエティにも出てる人をカッコいいと思っていたんですが、ライブハウスでシャウトする人に憧れるようになりました。決してジャニーズが好きじゃなくなったわけではないけど、それと同じぐらいの熱量でロックバンドが自分の心に響いて、「俺はこれになるんだ」と思いました。そのことを両親に話したら、「バンドをやるならお金がかかる。バイトができる高校に行きなさい」と言われて。当初志望していた高校よりも偏差値の低い学校へ行くことにしました。三者面談では先生から「もったいない」と止められましたけど、うちの親が「私もバンドやっていたんで、大丈夫です」と説得をしてくれて(笑)。そこから人生が大きく動き出して、今につながっています。

──高校に進学した時点で、プロになるつもりでいたんですか?

いや、そこまでは考えてなかったです。ただ、親に言われた通りお金が必要なことはわかっていたから、高校生になって必死にアルバイトをしながら、ライブハウスのチケットノルマを払ってステージに立っていました。そんな中、しばらく経ったある日、初めてチャージバックをもらえたんです。いつもはアルバイト代やお小遣いで食べていたラーメンを、ライブで得たお金でバンドメンバーと食べていたときに「これか! 音楽でメシを食うってことは」と実感して。そこから「生活ができるくらいお金を稼いで、プロと呼ばれるレベルになろう」と思ったのが、高校3年生のときです。ちょうど就職か大学進学かを考えるタイミングでした。進路に迷っていたとき、親から「どうせ大学に行っても、勉強そっちのけでバンドをやるんだから働きなさい」と言われたんです。「バンドを続けるのにお金がかかるから」って。「じゃあ就職かな?」と返したら、「就職すると土日しかバンドができなくなるから、フリーターになれ」って。

──三者面談の話も含めて、バンドを軸に進路を考えるという親御さんの提案は、かなり珍しいですよね。

そのときは「あ、そっちがいいんだな」と軽く受け止めたけど、今思うとすごいですよね。正直言うと、僕は大学に進学したかったんですよ。サークル内でバンドを組んでる先輩が僕の周りにはめちゃくちゃいて、「自分も大学生になりたい」と思っていたところ「フリーター……?」と最初は戸惑ったんですけど、「そうか。バンドをしながら生活するなら、遊んでいちゃダメだよな」とすぐに納得して。バイトで生活費を稼ぎつつ、バンドの時間も確保しないといけないと気付いて、人生を音楽に全ベットしました。そんな親のありがたい助言のおかげで、今の自分がいますね。

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一番好きなバンドに声をかけられた

──話を聞いていると、将来について寛容な親御さんだと思うんですけど、厳しいことを言われることもありました?

高校を卒業するタイミングで、父親から「何歳までに音楽で食えるようになっていなかったらバンドを辞める、というボーダーラインは決めておけ」と言われまして。それで18歳のときに「25歳までに音楽でメシが食えていなかったら辞める」と決めました。現在28歳なんですけど、なんとか23、4歳のときにそのラインをクリアできたので、今も音楽を続けられているのはありますね。両親は僕のやりたいことを尊重する反面、鋭い目線も持っていたので、そこも含めて感謝しています。

──学生時代は中学の同級生と組んだバンドと、高校の軽音部で結成したバンドを掛け持ちしていたそうですね。高校卒業後はどちらのバンドで活動していたんですか?

続けていたのは同級生と結成したバンドなんですけど、みんな学業が忙しくなって、どんどん抜けていったんです。そんな中、名古屋のライブハウスシーンに僕より4、5歳上に“飛べるトリ”という、めちゃくちゃカッコいいバンドがいて。僕にとってはヒーローのような存在だったんですけど、そのバンドが解散することになり。ラストライブを名古屋アポロベイス(現・新栄シャングリラ)でやる前に、ホームにしていた小さいライブハウスで、仲よくしていたバンドを10組ほど呼んでイベントを開催したんです。そのオープニングアクトに高校3年生だった僕も呼んでもらいました。終演後の打ち上げで、ベースの方から「実はボーカルが抜けるからバンドを解散することになった」と聞かされて。そのあとに出た言葉が「次のボーカルになってくれん?」と。一番好きなバンドに声をかけられたから、最初はわけがわからなかったんですけど、しばらくして、改めて誘われたときに「やります」とお受けしました。それまで組んでいた同級生のバンドを抜けて、できあがっているバンドの中に前任のボーカルと入れ替わる形で加入して。初めてスタジオに入ったときは、ひと言も話せないほどガチガチ。それでもがんばって続けていましたね(笑)。

──尊敬する先輩と一緒に音楽をやるとなると、やっぱり緊張感はありますよね。もしかしたら見限られてしまう可能性もあるし。

常にそこと戦っていましたね。後半は楽しくやっていたと思うんですけど、加入当初はメンバーから一切褒められなかったんですよ。「もっとうまくできないの?」とか「次のレコーディング終わりに『成長したな』と思わんかったら無理かもしれん」とか。最初の1年間はダメ出しばっかりでかなり追い詰められていたけど、そのおかげでだいぶ成長できたと思います。

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Cielyとして活動していく決意

──そして猪﨑さんは2022年にソロプロジェクト・Cielyをスタートされます。これはどんな流れで始まったんですか?

ある日、ギターとベースから「バンドを辞めたい」と申し出がありまして。最終的に僕とドラムの2人だけが残り、「どうにかやっていこうか」と話していたタイミングでコロナ禍になりました。当時はライブハウスで働いていたんですけど、イベントやライブの中止が相次いで、バンドも仕事もやる気がなくなってしまった。そんなとき知り合いが声をかけてくれて、人生で初めて就職したんです。岐阜県の居酒屋で店長という、大きなシフトチェンジをしました(笑)。

──コロナ禍だから、居酒屋もお客さんが来なくて大変だったんじゃないですか?

そうなんです。お酒が出せない時期だったので、とにかく時間を持て余していて。気付いたら自分自身も腐ってしまって、音楽すらまともにやらなくなってしまったんですよ。その頃はアイドルやアーティストへの楽曲提供だとか、先輩から楽曲の編曲を任されていたんですけど、ずっとゲームばかりしていて。

──すべてにやる気が出ず、怠惰になってしまった。

「1人で音楽をやるのもな……これからどうしようかな?」と迷走していたとき、編曲を依頼してくれていた先輩から突然、旅行に誘われまして。宿に着いて「お前は今こういう状況で、俺の仕事もやっていないじゃん」とお叱りを受けて。そのあとに、「1人でもいいから、お前はステージに立て」と言ってくれたんです。その先輩はソロプロジェクトとして、バンド名を掲げて1人で音楽をやっていたので、だからこそ言葉がすごく響いちゃって。「確かに1人でもできるか。この人自身がそれを体現しているじゃん」と。その一件がきっかけで、Cielyとして活動していくことを決意しました。