KREVAの履歴書。

アーティストの音楽履歴書 第31回 [バックナンバー]

KREVAのルーツをたどる

ヒップホップシーンを牽引し続けるトップランナーの尽きせぬ探究心

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アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回はデビュー以降、日本のヒップホップシーンを牽引し続けるKREVAの音楽遍歴に迫った。

取材 / 内田正樹

給食委員になってLL・クール・Jを校内に流した中学時代

本名の貴志は、母が子供の頃、近所に長寿さんという方がいたらしくて。でも、早くに亡くなられたので名前負けというのがあるかもしれないと考えて、お寺で姓名判断してもらった中から1番の候補を飛ばして2番で貴志にしたって言っていました。

幼少期のKREVA。

幼少期のKREVA。

小さい頃は「リーダー」「目立つ奴」みたいな感じだったと思います(笑)。ずっと学級委員で、学級委員をやらないと先生に呼び出されるという。中学のとき、給食時間の放送でヒップホップを流したかったから給食委員を選んだんですよ。そうしたら先生に呼び出されて「なんで学級委員やらないんだ!?」って(笑)。俺には給食委員を選ぶ権利もないのかと。結局、給食委員になってLL・クール・Jの「Mama Said Knock You Out」をかけたんですけど。まあ、そんな子でした。自分が育ったのも、KREVAが生まれたのも江戸川区なので、やっぱり江戸川で育った感覚はすごく強い。自分の家の周りは団地ばっかりで。あとは川。川があって河原があって不良がいて。地方から「東京に行きたい!」と思っていた人を連れてきたら「来たかったの、ここじゃない」みたいな(笑)。東東京という“端っこ”が持っている、ちょっとやさぐれた雰囲気。これはZORNに会って再認識しました。

最初に買ってもらったレコードはリマールの「The Never Ending Story」。自分で最初に買ったCDだと、多分、履歴書にも書いた中村あゆみさんの「ともだち」。小学校4年のときだったか、「翼の折れたエンジェル」という曲がすごく流行っていて、「夜のヒットスタジオ」という歌番組に中村さんが出たとき、「すごいピアスの数ですね?」って司会者に言われて「セックスした数です」って返してるのを観て、「この人マジですげえ!」と思ってCDを買いに行ったらニューシングルで売っていたのがこれだった。思えば「夜のヒットスタジオ」にはけっこうヤラれているんですよね。TM NETWORKも尾崎豊も「夜のヒットスタジオ」で観た印象的なシーンを覚えています。

ギターを習い始めたきっかけは3、4歳の頃、お母さんの自転車の後ろに乗っていた俺が急に「ギターがやりたい」と言い出したらしく。たぶん道端にたくさんあった「新堀ギター」の広告なんかを見て興味が湧いたんじゃないかな。幼稚園から小学校2、3年生まで習っていました。発表会とか毎年誘われていたんですけど、そんなレベルじゃないからって頑なに断って。とにかく手が痛くて、うまく弾けている感覚もまったくなかったです。ただリズム感と音感はかなり鍛えられましたね。ギターを辞めたのは、サッカーにハマって音楽をやる感じではなくなったから。音楽は聴くものに変わっていきました。サッカーは小4から高校の終わりまでやっていました。1986年のメキシコW杯とか、夜中に眠い目をこすって観てました。最初の将来の夢もサッカー選手だったし。でも中学の終わりか高校くらいからはもう頭の中はラップばかり。あとはなかったですね。大学に入ってからも、就職活動とか、頭によぎったことさえなかったです。

フリースタイルは最初から手応えがあった

中2のとき、同じ団地に住んでいたCUEZEROとヒップホップグループをやろうと決めて。ほかにNutsってやつと、彼と高校が一緒だったマーくんというやつがいたので、彼らと一緒に組みました。それがBY PHAR THE DOPEST。マーくんは家が金持ちだったのかターンテーブルを持っていて、しかもダンスがうまかったんですよ。「DADA L.M.D」っていうダンス番組に出て中学生なのに優勝してたくらい。おまけにスクラッチもうまかったから教えてもらったりしてました。当時、雑誌の「FINE」でRHYMESTERやキングギドラの記事を読んだり「韻ってこうやって踏むんだな」と知ったりしましたね。フリースタイルについては、なんでかよくわからないんですけど自然に始めて、しかも最初からむちゃくちゃできていた。それははっきりと覚えています。ギターと真逆で“自分のもの”という手応えがすごかった。

高校時代のKREVA。

高校時代のKREVA。

ターンテーブルとミキサーを買ったのは高2のとき。バイトして、秋葉原まで買いに行って。その日は大雪だったんですけど、どうしてもすぐに持って帰りたくて、重さ12kgの荷物を家まで引きずって帰った(笑)。予算的にターンテーブル1台とミキサー1台しか買えなかったから、もう片方のターンテーブルの代わりは父親が持っていたコンポに付いていたいわゆるレコードプレーヤー。だからそっちはこすれない(笑)。最初はそれで音をつなぐ練習とかしていましたね。2台持ちの奴もいたから、そこにレコードを持ち寄って遊んだりして。レコードはみんなで分担して買っていた。ダブらないように「俺がこれ買ったから、お前はこれ買うなよ?」みたいな(笑)。最初はボビー・ブラウンとかMCハマーとかダンスミュージックが多かったんですけど、この頃にはもう聴く音楽はヒップホップ中心になっていましたね。渋谷のWAVEとかでレコードを買っていました。

影響を受けたアーティストはポイントごとにいたけど、日本語のラップではMUROさんとRHYMESTER。RHYMESTERの「EGOTOPIA」というアルバムを聴いたとき、「自分が目指したいのはこういう感じかも」と思った。久保田利伸さんの存在もデカかった。久保田さんがトシちゃん(田原俊彦)に提供していた「It's BAD」のラップ部分を覚えていたり。いとうせいこうさんがやっていたネッスル(現ネスレ)の「ネッスルの朝ごはん」のCMなんかも完全に覚えたりしてました。ボビー・ブラウンの「Every Little Step」って曲もラップの部分だけがやけに好きだったし、ラップを欲していたんだと思います。

MPC3000のために組んだ人生初ローン

小学校の高学年頃から父親に「大学には行ってほしい」と言われていて。父親は「6人兄弟でいろいろとお金もかかるから大学に行かせてもらえなかった。それで社会に出てからも苦労したから」と。自分はラップがやりたかったけど、「どうせ行くならいい大学に」とは思っていたんです。で、高2のときに同級生から「今から勉強していないと、お前みたいなやつは大学なんて行けない」と言われて。ぶん殴ってやろうかと思ったんだけど、その足でそのまま教室の後ろにあった大学受験の資料を見つけて読んだら、慶應大学の総合政策学部が偏差値ランキング1位、環境情報学部が2位と書いてあったので「ここ入ってからにしよう」と。でも環境情報学部に入学した頃にはもう忘れちゃってました(笑)。あいつはあいつで早稲田の政経に入ったんで俺の勝ちという感じでもなかったし。

MPC3000を買ったのは19歳のとき。マーくんも持っていたし、その頃に通い始めていた原宿のCRIBという洋服屋の店長でEAST ENDのDJ Rock-Teeさんがお店に3000を持ってきていたので触らせてもらっていたんですよね。そこに通い詰めていたから働かせてもらえることになって。バイトしながら使わせてもらっているうちに、マーくんよりも俺のほうが全然扱えていることに気付いてしまった(笑)。未成年だからローンで買うには保護者の承諾が必要で、楽器店から親に電話しました。人生初ローン。当時30万。高かった! でもラップに「俺のものだ」という感覚が強くあったのと同じくらい、MPC3000でトラックを作るという行為にも「これだ!」という衝撃を強く感じた。バンドブームには全然心惹かれなかったのに。

「B BOY PARK」は優勝すべくして優勝した

「B BOY PARK MCバトル」の第1回大会が開催されたのが1997年。でも俺は95年にレコーディングをして96年にもう作品が出ているんです。つまりMPC3000を買ってすぐに作品を出している(笑)。そのぐらい、当時はまだヒップホップ人口が少なかったんです。第1回大会に関しては、完全に「俺のための大会が来た」と思っていました。「やっと公式の場で白黒付けるときが来たな」と。だからある意味、優勝すべくして優勝した。MCバトルで覚えている瞬間はほとんどない。「出た」「勝った」みたいな感じ。元々クラブにはフリースタイルの時間があって、勝敗のジャッジもそこに居合わせたやつがするし、賞金があるわけでもない。俺はその界隈の野良の切り合いの中で名前を上げていったわけだけど、その野良バトルの1つひとつはけっこう覚えていますね。ZORNとの「One Mic feat. KREVA」の中で使った「アメリカ並び変えたら亀有」はZORNからのリクエストで入れたんですけど、言葉を並びかえて韻を踏む、後に「KREVAスタイル」と呼ばれる技を初めて人前に出したときですね。

青年時代のKREVA。

青年時代のKREVA。

ただ優勝してからが大変でした。第2回、第3回と連続で優勝するためにむちゃくちゃトレーニングを積んだ。初対面の相手の文句が言えるように、街でラジカセを流しながら、前から歩いてくる人の容姿をひたすらディスり続ける練習とかして、ずっと“フリースタイル脳”にし続ける生活だった。読書はほとんどしなかったけど、週1くらいで変わる電車の中吊りを見てフリースタイルして。あとは新聞の見出しで韻全踏みとか。

ソロで実感した1億何千万人に聴いてもらうチャンス

KICK THE CAN CREWのメジャーデビューで俺が覚えているのは、「とにかく最初に出すシングルは絶対に『スーパーオリジナル』だ」と断言していたこと。理由は「のちに振り返ったとき、『スーパーオリジナル』でメジャーデビューした事実が一番ヒップホップだから」と言ったのを覚えています。売れなかったけど(笑)。直感で言っただけで、先を見越していた感じではなかった。デビュー当時の感想は「厳しい」。異ジャンルの人たちといろんなところで一緒になるたびに「これは厳しい世界だな」と感じました。ラップのラの字もないような場所にもどんどん出て行かなければならないし、でっかいフェスに呼ばれたら呼ばれたで、小さいサブステージで、メインステージから「音がうるさい」と怒られたり。そんな時代だったけど、「まあやるしかないな」って。

ソロデビューが2004年だから、KICK THE CAN CREWは3年しかやっていなかったんですよね。メジャーデビューして成功したおかげもあって、それぞれ自分の色をどんどん出していく。でもそればかりだと自分が作っているトラックが「ちょっとかわいそうだな」と思い始めて。これは絶対に1人で完成させたいと思ったのが「音色」だった。スタジオも自分で予約して、リリースなんて何も決まっていなかったんですけど、「ともかく完成させたい」というピュアな気持ちだけで突き進んだ曲でした。

確かKICK THE CAN CREWの「magic number」が売上60万枚ぐらいだったんです。「ということは、日本の人口の残り1億何千万人に聴いてもらうチャンスがまだ俺にもあるぞ」と思って。KICK THE CAN CREWのファンにっていう気持ちもまったくなかった。ソロデビューのときは、皆さんに向けて「初めまして、新人KREVAです」って感じでしたね。まだ曲もリリースしていないのに、いきなりデカいフェスに2つくらい出してもらえた。「期待されているんだ」と思えて、すごくうれしかったですね。あとソロになったら周囲が急に褒めてくれるようになって(笑)。KICK THE CAN CREWのときは、わざわざ「最高だね」みたいに直接言ってくる人もあまりいなかったし、「いいね」も3分の1というか、わざわざ俺に言わないし。だけどソロだとシンプルに俺が「いいね」と言ってもらえてると、実感できました。

三浦大知の素晴らしい人間性

2016年、ビクターに移籍しました。今日の取材場所のビクタースタジオはいいですね。すごく好きです。レーベルについて居心地の悪さとかは感じてないですけど、歴史のあるレーベルなので、その分、時間をかけて古い風習を変えていかなきゃいけない部分もあるような気はします。ただ、例えばミュージックビデオや動画配信、パッケージのデザインなど、すべて完全に自分でやろうとしたらもっと本気でそれぞれについて勉強しなくちゃならない。でもそこをチームで動いて高いクオリティまで持っていってもらえるのはいいですね。その道のプロがたくさんいて、1個のものを作り上げるという感じもいいなって。全部1人でやれたらやれたでそっちのほうが得なのかもしれないですけど、俺はそこにあまり魅力を感じていないです。みんなで作るほうが圧倒的に楽しい。

尊敬するミュージシャンは、12月23日にリリースするコラボシングルのこともあってパっと大ちゃん(三浦大知)が浮かんだんですけど、そもそも天皇陛下の前で歌を歌った人って、多分あとにも先にも自分の知り合いの中からはもう現れないんじゃないかなと思います。

RHYMESTERの宇多丸さんもラジオで「(大ちゃんとは)知り合いじゃないことにしよう。何か迷惑がかかったら困るから」って言ってたけど、俺も同じこと思いました(笑)。大ちゃんはずっといい人。今までの十何年間の付き合いで、彼が天狗になったり大きく振舞ったりした瞬間は、今のところ1秒しか見たことがない。宇多丸さんと俺と大ちゃんの3人で飲みに行ったとき、酔っ払って寝始めちゃった大ちゃんに話しかけたら「おお!」ってタメ口で返してきたから「おっ! タメ口!」ってツッコんだら「すみません!」って。その1秒だけ(笑)。あとはもう本当に誰と話しても「いい人だよね」という話しか出てこない。素晴らしい人間性です。

あれだけ踊りながら歌える点も含めて彼の声のコントロール力はおそらく日本一。ずば抜けていますね。しかもそれを自分で客観視できる。シングルのレコーディングもそうだったけど、録り終わえてから俺が「ここをこうして」と言おうとしたら、大ちゃんから先に「あそこ、こうでしたよね」と言ってくる。歌いながら自分でわかっているんです。でも、そんな大ちゃんでもラップができない。もちろんやったらそれなりにはこなせると思うんですけど、どれだけ演技がうまい役者さんでも、めちゃくちゃ不良の役をやったらちょっと無理がある感じというか。面白いものですよね。

スタジオ設立を目標に

履歴書の続き? 書きたいこととしてはスタジオ設立かな。規模の大小に関わらず、ずっと前から作ってみたくて。今も事務所に自分専用のスタジオはあるんですけど、言っても事務所だし。仲良くなったラッパーにも貸せるような自分のスタジオをちゃんと作ってみたい。理想はThe Black Eyed Peasのウィル・アイ・アムが持っているような、音楽のスタジオがあって、そのすぐ横に全面クロマキーの撮影スタジオがあるような感じ。レコーディングに来たアーティストがそこで写真や映像も撮って、すぐにパッケージ化できるような場所が作れたらいいなって思っています。

その気になれば今すぐできないこともないんだろうけど、できればYouTubeで1億再生みたいなヒット曲が生まれるとか、自分で納得のいく結果を何か1つ出してからやってみたい。だからまずはプレイヤーとして、これからもいい結果が出せるようにがんばります。

KREVA(クレバ)

KREVA

KREVA

1976年生まれ、東京都江戸川区育ち。BY PHAR THE DOPEST、KICK THE CAN CREWでの活動を経て2004年にシングル「音色」でソロデビュー。確かな実力でアンダーグラウンドシーンからのリスペクトを集める一方、久保田利伸、草野マサムネ、布袋寅泰、古内東子、三浦大知、MIYAVI、鈴木雅之らメジャーアーティストとのコラボも多数。ラッパーとしてのみならずビートメイカー、リミキサー、プロデューサーとしても高い評価を受けている。2016年にビクターエンタテインメント内のレーベルSPEEDSTAR RECORDSに移籍。2019年にソロデビュー15周年を迎え、6月に全曲再録による“ニューベストアルバム”「成長の記録 ~全曲バンドで録り直し~」を、同年9月にアルバム「AFTERMIXTAPE」を発表。2020年12月23日にニューシングル「Fall in Love Again feat. 三浦大知」をリリースする。

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