「プレイボール2」コージィ城倉×ちばてつや対談 |ちば兄弟の遺伝子を受け継ぎ描く 野球マンガの金字塔38年ぶり続編

コージィ城倉×ちばてつや対談

幻の「ちばてつや特集」号に、サインをねだるコージィ城倉

──おふたりは今回が初めての対談ということですが、これまでに顔を合わされたことは?

左からちばてつや、コージィ城倉。

コージィ城倉 最初にお会いしたのは今年の2月です。

ちばてつや そうだったね。城倉さんが、ここ(=ちばてつやプロダクション)に来てくれたんだよね。

城倉 僕が「プレイボール2」を引き受けると決めたとき、事前に4人の方にご挨拶しておきたいと思って、担当編集者さんにお願いしていたんです。まず、あきお先生の奥様。現・ちばあきおプロダクション社長の息子さん。あきお先生と一緒に作品を手がけられていた、実弟の七三太朗先生。そして、てつや先生です。この方たちに直接お許しを請うてからじゃないと作品を描けないなと思ったので。

ちば 私は“お許し”なんて関係ないですよ。あきおの家族や弟の七三太朗は「プレイボール」を手伝っていた人間だから、ご挨拶してくれたんですよね。私はただ、彼らの近所に住んでいるもんだから、ついでに寄ってくれただけでしょう(笑)。

城倉 いえいえ、てつや先生にはご挨拶しておかないと!

──城倉先生にお会いしたとき、てつや先生はどんな印象を持たれましたか?

「プレイボール2」第1話より。自宅で机に向かう谷口。母親は「熱心に勉強している」と思っているようだが……。

ちば 「グラゼニ」などの原作も含め、城倉さんの作品についてはもちろん知っていたんですけど、実際にお会いしてみたら理路整然と学者さんみたいな話し方をされるんでビックリしましたね。

城倉 なんか恥ずかしいなあ。

ちば マンガ家っていうのはね、大体があんまりこう……しゃべることが得意じゃないでしょう。絵を描くことで自分を表現する人種だから。でも城倉さんは、何でも論理立てて説明できちゃう。やっぱり、原作も書かれる人だからでしょうね。物語を構成したり、先の展開を構築したり、マルチな才能を持っている人だなあと感じましたよ。

コージィ城倉

城倉 いやあ、単純に貧乏性なだけです。僕はもう子供のときからてつや先生とあきお先生の作品で育ってきましたから、最初はこの場所に来られたというだけでただただ感動していました。てつや先生の仕事場と言えば、昔からマンガファンの聖地として……あっ、そうだ! 僕は今日、てつや先生に見てもらおうと思って、これを持ってきたんですよ。

(ふいに立ち上がり、隅に置いた自身のカバンを漁り出すコージィ城倉)

ちば なんですか?

城倉 これです、1972年に刊行された週刊少年マガジン37・38合併号! 「ウルトラ完全特集 ちばてつやの燃える世界」と題して、「カラー大追跡『ちばてつや ドロまみれ“奮戦記”』」や、「ワイド情報『初公開!ちばてつやのすべて』」などが掲載されている号です。

ちば へえ、ああ……こんなのが。

週刊少年マガジンを手に懐かしむちばてつや。

城倉 てつや先生のことが好きすぎる、僕のコレクションのひとつです。このグラビアページに、ちょうど今いる部屋と、てつや先生が写っているんですよ。今日はせっかくの機会なので、これに先生のサインをいただこうかと思いまして。

ちば (ページをめくりながら)ああ……懐かしいなあ。まだあきおが生きている頃の写真だ。

城倉 この号のてつや先生は本当にすごくて、マンガのほうも「蛍三七子」の108ページに加え、「あしたのジョー」が16ページ。どれだけ編集部に働かされているんだっていう(笑)。

ちば 我ながら、よくやっていたよねえ。このマガジンはね、私も持ってないですよ。こんな古い本を大事にしてくれてありがとう。

ちばあきお夫妻の出会いのきっかけは、里中満智子?

──話を戻しまして、「プレイボール2」のご挨拶をされたとき、てつや先生以外の皆さんの反応はどんなものでしたか?

2月発売のグランドジャンプ6号に掲載された、「プレイボール2」連載を伝える予告ページ。

城倉 七三太朗先生からは、「もう好きにやってください」というお言葉をいただきました。ストーリーやキャラクターについても、変な言い方ですけど、僕みたいな人間の手にすべて委ねていただいたと言うか。あきお先生のご家族に関しては、じつは「2」の企画自体が息子さんの発案だったので……。

ちば ああ、そうですか。私はその辺りの経緯について、よく知らないんですよ。

城倉 正確には、あきお先生の作品を使って「何かできないだろうか」と、最初に動き出されたのが息子さんだったと。奥様のほうは、その息子さんがリードされている企画ということで前向きに考えてくださっていたようです。

ちば 私が具体的な話を聞いたのは、今年の1月ぐらいだったかな。そこで城倉さんの名前が出たので、「ああ、これはいい話があってよかったなあ」と思いました。

ちばてつや

城倉 恐縮です。これは余談ですけど、僕が皆さんのお話を伺って一番驚いたのは、あきお先生の奥様が昔、講談社の少女フレンド編集部でアルバイトをしていたというエピソードでした。里中満智子先生の幼なじみだとか?

ちば そう、2人は同級生なんですよ。

城倉 里中先生が先に上京して、人気作家になられた後、あきお先生の奥様に「あなたもいらっしゃいよ」とおっしゃったそうですね。で、アルバイトとして、てつや先生のところへ原稿を取りに来たとき、あきお先生と出会われたという……。

ちば ああ、そうだそうだ。私もすっかり忘れちゃっていた(笑)。

城倉 僕はものすごく衝撃を受けましたよ、「えー、そんなことがあったんですかっ!?」と。

プロになったからわかる、ちばあきおの天才的なペンタッチ

──実際に今年4月、グランドジャンプに掲載された城倉先生の原稿を見て、てつや先生はどんな感想を持たれましたか?

「プレイボール2」第1話の扉ページに使用されたイラスト。

ちば いわゆる「あきおの絵」というのは、手作りというか、ぬくもりが“味”なんですよね。城倉さんはその部分をしっかりと掴んで、残してくれている。あきおの面影とでも言うのかな。かつて「プレイボール」や「キャプテン」に触れた読者がその続きとして、あきおの雰囲気を味わいながら読めるように、城倉さんが一生懸命に描いてくれているなあ、苦労されているなあ、と。

城倉 いやまあ、僕は死ぬほどマネっこをしているだけというか……(笑)。

ちば 私も30年ぐらい前にね、あきおが遺した作品の続きを描かなくちゃいけないという思いがどこかにあって、少し挑戦してみたことがあるんですよ。でも断念しました。あきおが描くあの……ぬるいというか、やわらかい線が、当時の私には描けなくなっていたんですよね。

城倉 そうでしたか。

ちば 私はペンの根もとを持って描くほうなんだけど、それだとなんかダメなんですよ。試しにペンの中間ぐらいを持ってみたり、ゆるーくひゅうっと描いてみたり、いろいろとやってみたんだけど、それはそれで頼りない線になっちゃったりして。城倉さんにはいい線で描いてもらって本当によかったですよ。

「プレイボール2」第1話より。選手の起用方法について思索にふける谷口。

城倉 いやもう……今もまだまだですし、永遠に完成はないと思うんですけど、連載前のシミュレーション段階から膨大な数の試行錯誤を重ねて、だんだんとマネができるようになってきたかなという感じです。あきお先生の線や絵柄って、それこそ子供のときに見たら、自分でもマネできるんじゃないかと思わせてくれるんですけど……。

ちば うんうん、思うよねえ。

城倉 プロとして本気で挑戦してみると、あらためてその難しさと素晴らしさがわかるんです。ご本人にしたら、持って生まれた天性で描かれていた部分もあったのかもしれません。ただ僕に言わせれば、あきお先生のペンタッチは、やっぱり天才的だと。

ちば 私はあきおが努力して描いているところを見ていたからね……天才なんて言われて、本人は恥ずかしがっているんじゃないかなあ。

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コージィ城倉(コージィジョウクラ)
コージィ城倉
1963年長野県生まれ。1989年に週刊ビッグコミックスピリッツ(小学館)にて「男と女のおかしなストーリー」でデビュー。デビュー時から野球を題材にすることが多く、同年ミスターマガジン(講談社)にて「かんとく」、1995年に週刊少年サンデー(小学館)にて「砂漠の野球部」、2003年には週刊少年マガジン(講談社)にて「おれはキャプテン」など数々のヒット作を生み出している。一方で人間の暗い心理を浮き彫りにするような作品も手がけ、2002年にビッグコミックスピリッツで連載した「ティーンズブルース」では、ホストクラブにはまって転落していく女子高生を描き読者を驚かせた。また森高夕次(もりたかゆうじ)名義で原作も担当し、アニメ化が決定している「グラゼニ」をはじめ、「おさなづま」「ショー☆バン」「ストライプブルー」「トンネル抜けたら三宅坂」などバラエティ豊かな作品を発表している。現在の連載作に「プレイボール2」「モーニングを作った漫画たち」「グラゼニ~東京ドーム編~」「あしたのジロー」など。
ちばてつや
ちばてつや
1939年1月11日東京都生まれ満州育ち。本名は千葉徹弥。1956年、単行本作品「復讐のせむし男」でデビュー。1961年に週刊少年マガジン(講談社)にて、原作に福本和也を迎え「ちかいの魔球」を連載開始。翌年少女クラブにて「1.2.3と4.5.ロク」を連載し第3回講談社児童まんが賞を受賞、1965年に週刊少年マガジンで連載した「ハリスの旋風」は翌年アニメ化された。 1968年、同誌にて高森朝雄とタッグを組み、ボクシングを題材にした「あしたのジョー」を連載。ライバルである力石徹が作中で死んだ際には、実際に葬儀が行われるほどの社会現象を巻き起こした。同作は1970年と1980年にアニメ化、1970年と2011年に実写映画化、1980年とその翌年にアニメ映画化がなされた。1973年、週刊少年マガジンにて「おれは鉄兵」、ビッグコミック(小学館)には「のたり松太郎」を連載。2作ともヒット作となり、「おれは鉄兵」は1976年に第7回講談社出版文化賞を受賞、「のたり松太郎」は翌年第6回日本漫画家協会特別賞および1978年第23回小学館漫画賞を受賞した。1981年、週刊少年マガジンにて「あした天気になあれ」を連載する。2001年に文部科学大臣賞を受賞、2002年には紫綬褒章を授与された。現在はビッグコミックにて「ひねもすのたり日記」を連載中。